matiere
あいつとあいつができている、という夢をみてしまった。
夢のはじまりでおれは白檀のドアの前に立ち尽くしその向こうに何があるのか考える。すうと自然に、きっとあのふたりがいる部屋だ、と思っていたし、それが夢の中でかりそめの真実となっただけ。ドアを開けると想像したとおりの光景があり、まるで自分の脳の中を転写したようでわらえた。自嘲なのか、子どもじみた駄々か? おれの語彙では表現しきらない感情も、それをおさえつける自分の理性も、結局自分の脳の中、夜をさまよっているだけだ。ただの、夢。少なくともあのドアの向こうの部屋は、現実にありえないほど豪奢だった。
夢というのは必要ない情報を脳が整理するための時間だという。なんであいつは事あるごとに薀蓄を披露したがるのだろう。賢いとおもわれたいのか。おれに? 違う。きっとあいつに。わざわざそんな努力をしなくても、あいつはおまえを愛しているよ。けれどそんなことわざわざ言ってやるほど、お人よしなつもりはない。
押し開けたドアは重く、けれど羽根のように軽く部屋の奥へ向けて開いていった。大きな椅子。小さなテーブル。比率がおかしくてまるで不思議の国だ。わたしをたべてと懇願する美しく甘い菓子のように、あいつは短くそろえた金髪を濡らしてそこに立っている。ふりむいて、笑う。毒入りだと、今ならおもえる。おれは現実あいつにくちづけたこともないというのに、夢の中で、その白い背にふれた。必死で。
あまりよく寝付けなかったのかと訊かれて返答につまる。泥のように眠ったはずなのに疲れがとれなかったのは、明らかにあの夢をみたせいだ。そうだね寝不足で、と嘘を返すと、横からあいつが話に入り込む。
夢なの? 怖かった?
ソファの後ろからおれの背中に両腕をまわし、頭の上に顎をのせ、大型犬のようになついてくるそいつをそのままに、おれは十二個めの菓子に手をのばした。こわくなんかねえよ。勝手に口角がもちあがる。嘘をつくことはとても得意だ。積み上がった菓子の包み紙と同じで、見た目ならいくらでも豪華に装える。
嘘をみやぶれないままにあいつが言う。
まあ、おまえなら、大丈夫だろうな。
取り成すように。
信頼という甘言めいた名札をつけて、踏み込めない気持ちをごまかしている。おれも、そして、あいつも。膜を突き破るエネルギーをもたないのだ。不思議だ。色素がうすい人間はみんなこうなのか? ちょうどおれの胸元に降りた、あいつの、幼くちいさな手をみている。
あいつとあいつができている、という夢をみてしまった。夢のおわりでおれは、開いたままの白檀のドアから抜け出せないでもがいている。犬のような黒い眼が、あいつの真っ赤な眼を射抜く。あれは昂ぶったときの眼だ。人から嗤われそうな下世話な想像でもって、おれは、どうして眼が赤いのかを考えてしまう。とたん、目の前でリアルな質感をもつ二人が、くちづけて幸せにほほ笑んだ。なんでも現実になる世界なんて、ネガティブな人間に与えるものじゃないな。おれはどんな顔をしている?
椅子とテーブルの向こうには、四人で泊まっている定宿のベッド。豪奢な部屋の内装の中でそのベッドだけが浮いている。あいつはその上に腰掛け、なついてくる立った黒髪に慈しむような視線を向ける。あいつのあの眼がこうやって幸福に赤く染まるなら、それはどれだけよかったことだろう。おれにはできない。おれにはできない。おれには。
ゆっくりとシーツへ倒れていくふたりを、ただ見ている。おそろしく無邪気で幸福なふたり。スローモーションと、ソフトフォーカス。
買い物に出かけようといって、三人はこまごまと支度をはじめた。駅前の蚤の市を見にいくそうだ。発案者は嬉しそうにそこらで飛びはね、二人は苦笑しながらも嬉しそうだ。おれもあんなふうに愛される我が儘を言えたらよかったと思うが、そんなやり方は知らない。あいつならあたりまえにできることがおれにはできない。長身をスーツに包みネクタイに香水をふきつけながら、おまえも支度しろよ、とあたりまえに投げかけてくれる言葉が、今どれだけありがたいことか。おれはひとりではない。大丈夫だ、おれはひとりではない。悲しいくらいに嬉しいけれど、おれは脚を組み替えてわらう。いやだね。めんどくさい。三人で、行きな。
からっぽになった部屋でおれはひとり、夢のつづきを見ようと唸っている。こうやってもやもやちかちかと瞼の裏で明滅するものを掴むことができれば、三人が帰ってくるまでのこの時間を、平らかにすごすことができるはずなのだ。隠しておいた洋酒の瓶をひっぱり出して飲み干しても、おれの体は一向に酔いもせず、ああそういえばアルコールって麻酔の一種だったっけかと、昔に受けた長兄の授業を思い出したらまたわらえた。
ベッドでひとり寝返りをうつ。ひとりはいやだ。つまらないのではなく、つまらないことを考えるからだ。部屋を出ていった三人は幸福そうで、やっぱり一緒に、と言いかけた言葉が喉でつまった。
まるで父と母と息子のような、ぴったりとはまったあの三人に、立ち尽くしたおれはどんな顔をして入りこめばよかった? ああちがう、立ち尽くしていたのは夢の話。ねえ、三人が試験会場に訪れるまでの道のりや交わした会話を、ひとつのこらず知ることができればいいけれど無理だろ。真ん中で今にも走り出そうとするあの愛されるべき子どもが、決しておれである必要はない。おれには過ぎた役柄だ。あいつの眼を、悲しみでなく赤くすることができるなんて思ってもみなかったのに。
白いシーツに散らばった金髪の、その細い一本一本まで鮮明におぼえていた。あんな夢をみるのはなぜだ? 子どもじみた、馬鹿げたあこがれか。それとも一方的な連帯感か。他人に興味がないよう振る舞いながら、本当は他人に甘えられたがっている、淋しいひと。本当は他人に甘えたくてしかたないおれは、それでも、口角をつりあげて背を向ける。平気なふりをして。
犬のようになついてくるあいつの高い体温を想った。
冬には冷えて色が悪くなる、あいつの細い指先を想った。
立ち尽くすおれのことも、だれか祈ってやってくれないか。
数秒のカウントでおれが振り向いたとき、あいつとあいつが抱き合って、しあわせになっていればいいのだ。あの夢のように、幸福に。もう危険なくらいにあの三人を愛してしまっているおれは、だから誰より、あいつらの幸せを願っている。
愛されるべき対象が、決しておれである必要はない。そうであればと泣きたいくらいに思うけれど、決して、そんな、必要は、ないのだ。おれはきっと家族の代替をさがしているだけ。愛すべき三人のまぶしい笑顔と、山の上に住む殺人一家、おれとは似ていない彼らの顔立ちを注意深く思い出していきながら、この場合どちらが代替なのだろうかと、考えるのがこわくて酒を呷った。
思春期や恋愛や性欲ということばで、何もかも片付けばよかったのに。自分を誤魔化すには賢すぎるし(あいつのように)、悩みをもたないには幼すぎる(あいつのように!)。毒では痛まないはずの身体が、ずきずきと頭痛を訴えつづける。