le matin







『おはよう、オリビア。アラームの設定時刻になりました。良く眠れた?』

 小さなコクピットの中に、涼やかな女性の声が響いた。
 可能な限り後ろへ倒したメインシートの上でぐっすりと寝こけていた金髪の青年が、その声に反応してぴくりと身を震わせる。
「……ぅあ……」
 青年はゆっくりと、まだ夢の世界にしがみつきながら、鈍い動作で眼を擦る。寝癖のついた金髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜながら、ちょうど頭上の辺りに設置されたスピーカーをぼうっと見つめ。
「……起きるから、ママン…」
『寝惚けているのね? 私はママンじゃないわよ』
 きっと起きるから、もう少し寝かせていて。そういう意味の込められた台詞だったのだが、それはやんわりと優しい声で向かう方向を曲げられてしまう。まだ寝惚けた頭と開ききらない瞼のまま、訝しげにゆらゆらと頭を振る青年に、女性の声はかすかな微笑を含みながら告げる。
『私は《TAIN》シリーズ、《TAIN-Q07128》、機体名称は《アテナ》。あなたの愛機です、ススタケ・ティキ・オリビア』
「…………」
『オリビア? 返答の入力を』
 スピーカーから流れてくるその声は、こうして聴く限り生体のもの――生きて、動いて、笑うごく普通の女性のもの――と何ら変わりはないのだが、それでも、そうだ、これは合成音声だったのだと思い出す。それと同時に、頭の中に満ちていた眠気も、ゆっくりと波のように引いていった。
 オリビアと呼ばれた青年は、歳の割に小さな身体を捻ってシートから起き上がり、決して広くはないコクピットの中、器用に背伸びをしてみせた。
「何でもない。おはよう、アテナ」
 スピーカーに向けてにっこりと笑う。彼女がそれを見ることができるかは、また別の話。
 正面のメインウィンドウに張り付いて、周りの景色を確認する。あまりウィンドウに指紋をつけないでね、と諭す声が降ってくるのを、まるでその息子のようにはいはいと受け流しながら。
 オリビアが今乗っているものに似ていたり、或いは全く似ていなかったりする数々な機体が、その装甲ににぶく光を反射しながら、周囲に整然と並んでいるのが見える。

 ここは《世界の中心地》。
 世界連合の中で唯一の完全中立宣言を行った組織、《OPEN Air》が管理する島。
 永世の中立地帯ではあるが、決して天国ではない――遍く全ての坩堝でもあるこの島を象徴するかのように、島の中心部に築かれた空軍基地。
 その、機体格納庫。
 コクピットの中でもう一度背伸びをした、オリビア――煤竹=ティキ・オリビアは、《OPEN Air》空軍に所属する軍人である。


 世界は晴れ渡り、白い雲のひとかけも浮かんでいない。
 この格納庫の天井は一見どこにでもあるような鉄材に見えるのだが、中に電流を流すことで透明度が格段に上昇する――つまり、極端な話、透明になる――という特殊な素材で造られていた。整備等で長い時間を過ごす兵士が、日光や月光を忘れて時間の感覚まで失ってしまわないようにという配慮から生まれた、わりと新しい設備の一つだ。
 電流を流すタイミングはタイムテーブルで管理されており、特に陽射しの眩しい朝のこの時間、天井の透明度はフルに上がっている。格納庫の中はまるで青空の直下のように、燦々と太陽に照らされていた。
 機体のメインウィンドウから容赦無く射し込んでくる光に、眩しいよ、と呟いて短い眉を寄せたものの、澄ました声のスピーカーから、『朝は光を浴びなくては駄目よ』と返される。
 おおかた声の主である彼女が、先程のアラームと同時にメインウィンドウの遮光機能を切ったのだろう。
「……日焼けして赤くなっちゃうよ……」
「心配しなくても、メインウィンドウには紫外線カットの加工がされてるわ」
 せめてもの抵抗はあっさりと崩された。
 まったく、お節介なAIも居たものだ。
「困った子ね。まだ寝惚けているの、オーラ? さっきも私とママンを間違えたでしょう?」
 オーラ、というのはオリビアを縮めた愛称だ。
 差し込んでくる陽射しに明紫の眼を眇めながら、ティキは微かに頬を膨らませて抗議する。
「同じ名前で同じような口調だから、どうしてもママンと間違えるんだ。特に寝起きは――知ってるだろ、朝、弱いの」
『あなたがねぼすけさんなのは、昔から良く知っているけど』
「それなら解ってよ、アテナ」
『でもねオーラ、私にあなたのママンと同じ《アテナ》を名付けたのも、"きわめて人間的で、きわめて故人アテナ=モリアに似た、けれどあくまで別人の性格"を設定したのも、全部あなただったはずだけど』
 優しく言葉を積み重ねられ、ティキはむぅ、と言って黙った。高い学習機能を誇る彼女にとって、もう何度も繰り返されたこんなやり取りを収めることなどひどく簡単なのだろう。何だか見透かされているようで――いや実際、見透かされているんだろうが――少しだけ悔しい。
 しかし彼女に向かってお節介だ、などと言えば、そう設定したのはだあれ、と返されるのが目に見えている。
 一般的な自然の摂理として、息子が母親に勝てる日はこない。

 彼女はAIだ。
 膨大な行数でプログラムされた詳細にして繊細な性格設定と、耳障りの良い本物そっくりの合成音声。それから高度な学習機能を備えているのが売りの、《TAIN》――Talking AI Navigationシリーズの汎用型である。
 彼女のような戦闘機体搭載型AIには通常、冷静沈着で物事に動じず、あまり感情というものを表さないタイプのAIが好まれるとされる。その中では珍しい、お節介で、口うるさくて、なのにどこかしれっとしている彼女の性格は、全てティキのリクエストに沿って設定されたものだった。
 彼女は、十数年前に死んだティキの母親、アテナ=モリアと酷似している。

「……アテナはいじわるだ」
『いつまでも子供ね、オーラ。昔からそうやってすぐにむくれるんだわ。私の言う事なんて聞いてくれないのね?』
「あぁあ、子供扱いすんなっ、いじけるなっ! わかった、解ってる、俺が悪かったよ、確かにさっきは寝惚けてたし太陽光が自律神経に良いのも知ってる!」
 彼女の声はくるくると表情を変える。合成とはいえリアリティは充分だ。今にもしくしくと泣き出しそうな声に流石に慌て、半ば自棄になって自分が悪かったと叫ぶ。すると暫くの間の後に、ふふ、と優しく微笑むような声が返ってきた。
 ――まるで生身の人間のような。
 ――温かいコミュニケーションをあなたにお約束します。
 AIについてのカタログに眼を通すと必ず載っている、お決まりのキャッチコピーが胸を過ぎる。

「それはそうとさぁ、天気もいいしちょっとその辺飛びたいんだけど」
『ええ、勿論すぐにでも飛行可能です。システムはオールグリーン。あなたが起きる一分前に、機体の自動チェックを完了しました。――あぁ、ただね、外部装甲がちょっと』
「あ、やべ、昨日メンテせずにそのまま寝たんだった。そっか、だからコクピットに居るのか俺。忘れてたぁ」
『……ひどいマスターだわ。飛行したいなら止めないけれど、あまり遠くまで行かないでほしいわ。このまま《蠢く海》なんて行ってごらんなさい、大破間違い無しだから』
「大破してもアテナが助けてくれるでしょ?」
『おばかさん。私を何だと思ってるの?』
 母親、と考えてすぐに打ち消した。彼女がティキの母親でないことは、ティキも彼女も知っている。当たり前のことだと割り切っている。ぐだぐだと感傷の水溜りを見つけて踏み荒らすようなことは、あまり素敵な趣味とは言えない。
 幸い、ティキはペシミズム理論に傾倒してはいなかった。
「機体、と搭載AI」
『正解よ。大破なんてしたら最初に壊れるのが私じゃないの。どうやってあなたを助けろって言うんだか』
「あはは、冗談だってぇ……、心配した?」
『随分当たり前なことを聞くのね?』
 彼女の、少し呆れたような、怒ったような、それでもパイロットである自分を心底気遣う声に、ティキは母国の言葉でメルシ、と呟いた。頬にキスを鳴らすように、軽く唇を鳴らしてみせる。
 遠い昔彼女にしていたように、本当にキスすることはもう出来ないが。
『はいはい、私も愛してるわ、オーラ。――では、飛行プログラムの設定を始めます。システムは起動してあるからそんなに待たせないはずよ――今回の飛行は自動操縦? 手動操縦?』
「自動」
『わかったわ、任せて。では予定飛行時間と、飛行エリアの座標、或いは言語での入力を』
「予定飛行時間は――えー、三十分くらい。約束してるから朝飯食いに行かないと。エリアは基地飛行場上空――高度は任せる」
『戦闘或いは襲撃、それに準ずる事態が想定されるかしら?』
「ないない。多分ね。遊空飛行」
 シートの背に凭れながら、ティキはひらひらと掌を振る。慣れた質問を幾つか繰り返し、ふっと彼女が黙りこくると、計器パネルのダイオードがいくつか、処理中を示してチカチカと点滅を始めた。
『――O.K. 飛行プログラムは正常にスタート、システム再確認の結果もオールグリーン。離陸するわ。ゲートオープンの認証をお願い』
 彼女が再び口を開いた途端、動物が覚醒し跳ね起きるように、正面と左右のパネル全てがヴォン、と一斉に光った。
 下から照らし上げてくるタッチパネルは星に似ている。まぶしくて青白い、トウィンクル・トウィンクル・リトルスターだ。その上へタタン、と指先を滑らせて、暗色のディスプレイに流れる文字を確認する。
 基地の中の管制センターに、格納庫のゲートを開けるように要請するのだ。管制センター担当の兵士と回線上で僅かにやり取りを交わせば、やがて画面には認証という単語があらわれる。そして改行や文字の流れに飲み込まれ、あっという間に埋もれて消えていった。
 正面の操作盤に縦に浮かび上がる3Dのキーボードから七文字のパスコードを入力すると、今まで点灯していなかったパネルにもシュン、と音を立てて光が点る。
 正面のゲートがゆっくりと開いていく。透明度が上がり切った天井からの太陽光に慣れ、もうゲートの外を眩しいとは思わない。
 正面には、永遠と伸びる滑走路。
 暖められた空気の中で、無数の粒が踊っている。

 光に向かって機体は疾走する。
 Gが身体をシートに押し付ける。
 ティキは眼を閉じ、両手の指を握り締め、そしてゆっくりと、ほどいた。

「――AI《アテナ》と機体《アテナ》のシンクロ率は?」
『規定の安全数値の範囲内よ。問題ないわ』
「残り燃料は?」
『あと数回の飛行なら充分。だけど帰って来たらきちんと補充してね』
「了解」
『離陸成功――車輪の収納も完了』
 三角形の斜辺を辿るように、機体は上空を目指して飛び上がってゆく。
「いってきます」
 母国のことばではなく共用言語で、ティキは小さくそう言った。

 ――いってきます。

 それはただの挨拶ではなく、いつか帰ってくるためのおまじないだと、そう言っていたのもアテナだった。死んでしまう前の、生身だったアテナ。
 友達と遊ぶのが楽しくて、学校から帰るなり間も置かずにもう一度駆け出して行く小さなティキ。
 その慌ただしさを見兼ねてか、ある日彼女はこう言った。

 ――自分が帰って来たいと思う大切な場所には、それなりの敬意を払うべきだわ、オリビア。

 今はもうない生身の肉体と、合成ではない、声帯を介する音声でそう言った彼女を思い出し、ティキは少しだけ表情を緩める。あの日から、ティキとアテナの間にはひとつの約束ができた。それはどんなに遅く帰っても、どんなに急いで出て行かなくてはならないときも、必ず「いってきます」と「ただいま」と、「いってらっしゃい」と「おかえり」を絶やさない、という、今から考えれば大層微笑ましいものだったが――あの小さくて温かい家で、二人は本当に、決してその約束を破らなかった。
 AIの彼女にもティキの呟きは聞こえたのだろう、くすくすと笑い声をこぼしている。
 彼女というAIの記憶データの中には、この《おまじない》の一件も当然入力されている。日常の小さな会話から誕生日や名前などの大きなポイントまで、ティキが覚えている彼女との思い出は全て――彼女の中に、今もある。莫大な行数と文字数を経て、脳が司る記憶から、0と1の記憶データに形を変えてしまったが。
『懐かしいわね。おまじない』
「うん。仕事はそんなに好きじゃないけどさ――敬意を払おうかと思ってさ?」
 今、一瞬ごとに遠ざかっていく基地を指して、子供のようにティキは笑う。
 それに対するアテナの返答がやってくるまでには、僅かな空白の時間があった。それは単にシステムの処理時間か、それとも彼女が音もなく微笑を浮かべる間だったのか。
『この場所が好きなのね、オーラ?』
 合成の、けれど生身のそれに限りなく近い優しい声。ティキはころころと笑いながら、そうだよ、と返す。
 そうさ、楽しいよ、アテナ。ここで毎日生きているのは、楽しくて、楽しくて、いつだって頭がくらくらしている。


『高度上昇中……、1000……2000……3000……スピードを緩めます。……ねぇオーラ、私からも訊いていいかしら』
「何?」
『今日のお天気はどう?』
「天気? そんなのどーすんの、アテナ」
 随分人間らしいことを訊くようになったと思いながら、ティキはメインウィンドウの向こうを見やる。澄み切って光るような空色、広い視界、たまに後ろへと千切れ飛んで行く白い雲。かなりのスピードで飛行している筈なのだが、比較物がないせいかあまり実感がない。
「快晴だよ。多分ね」
『そう。きっと、お洗濯物が良く乾くでしょうね』
 妙に生活感溢れる返答に、ぶはっ、と思わず吹き出してしまう。
「それよりも遊びさ! プール、日焼け、ナンパ、ウィンドウショッピング! 楽しいことは太陽の下でやるって相場が決まってる!」
『オーラ、あんまり不真面目だとまたあの子に叱られるわよ――』
「あの子って誰? 心当たりは何人かいるけど」

 機体は雲を突き抜ける。
 操縦するアテナの声を聴きながら、やがてティキはもう一度、やわい微睡に落ちていった。






sally partons vont!