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 せせりちゃんの中にはきっといっぱいの愛があるのね。
 まだ名前を覚えていない何とかというカウンセラーが今日話したたくさんの言葉の中で、唯一せせりの心に残ったのがそれだった。とはいえ心を動かされたのかと言えばそうでもなく、だから今日もせせりはそのカウンセラーの名前を覚えなかったし、訊かれたこと以外に何か自分から話したりもしなかった。ただ、ちくちくと棘の湧いた心のどこかに、その言葉は引っ掛かったままいつまでも残った。
 違和感にきゅうと眉を顰めるが、厚い前髪に隠されてその様子は解らない。
 だけど、そんなに自分を責めなくてもいいの――。
 言われ慣れたやさしい言葉にはとりあえず笑って、そうですか、と適当な答えを返す。

 誰に何を言われても、劇的に自分が変わったりはしない。
 世界は今日も甘くて痛い。
 ただそれだけの、世界。

「ありがとうございました」
 一応、という感じで受付に礼を言って病院を出ると、春の粒子がそこら中に漂っていた。温い空気と強めの風。金髪が浚われないように、前髪を押さえて俯いたまま歩く。
 すれ違う人達が見せる一瞬の不思議そうな顔が、何だか怖くて厭だった。染めていない地の金髪と、前髪で隠した緑の眼。大きめの病院であればある程そこに集まる人間も多くて、向けられる視線から逃げるように、足早に敷地の外へ抜ける。
 植え込みの花を点々としながら、鮮やかな揚羽が飛んでいた。
 前髪の奥からそれを見つめ、逃げるように踵を返す。
 いつも通らない道を通って、大回りして家に帰ろうと思った。

 きっとたくさんの愛があるのね。
 まだ若いカウンセラーはそう言った。やさしい顔で。
 けれども愛が何なのか、せせりには良く解らない。
 それは何だか色んなところで耳にする単語だし、何だか大切なものだと教わったし、だからまだ二十年も生きていない自分に解るような簡単なものであって欲しくないと思うし、けれども実際そういうものへの理解に年齢は関係ないだろう、とも思う。
 良く、解らない。
 セックスは限りなく愛に近い位置にあって、けれども全く違うものだ。熱、衝動、雷鳴、渦、いたみ、そういうものが全部めちゃくちゃに自分の中で掻き回される感覚、異物に侵食されるような恐怖、行き場のない声と、感情と、爪の痕。
 それでも合わせた肌は気持ちがよかったし、隣に誰かがいてくれる眠りは、せせりにとっては幸せだと言えた。
 それでもせせりには良く解らない。恋とか、愛とか。
 好きか、と訊かれれば好きだ、と答える。クラスメイトの誰かでも、すれ違っただけの誰かでも、もし訊かれれば同じように、好きだ、と答える。
 嫌いだと言われるのは怖いことだから。世界の誰からも好いてもらえないのは、怖いことだから。
 ――好きか、と誰かに訊かれれば。
 だから、好きだと答える。
 それが勝手な友情の再確認でも一晩だけのピロートークでも同じことだ。
 少しの眠気を押し殺して。
 下手な微笑で。
 ――すきだよ。
 ――すきだよ?

 それが愛でいいのなら、多分この世はおしまいだ。
 心の底からそう思う。


 結局のところ、せせりは人間に絶望していない。何だかんだで素晴らしい生き物なんじゃないかなあ、と、期待半分で思っている。
 同じ理由で、自分を取り巻く世界にも絶望していない。母親がいて、叔母がいて、祖父がいて、親戚がいて、名前も知らないクラスメイトやカウンセラーや沢山のすれ違う通行人がいるこの世界は、本当はとても美しいものなんじゃないかなあ、と、やっぱり期待半分で思っている。
 その代わり自分には絶望している。もうずっと前から、深く静かに、だめだ、と思っている。
 緑の眼も金髪も嫌いで、見たくないから鏡も嫌いで、見られたくないから前髪をずるずると伸ばしている。
 殴られて倒れる自分が嫌いで、うまく笑えない自分が嫌いで、潔く命を断てずに生き長らえている自分が嫌いだ。
 愛される要素のない自分に、もうとっくの昔に『終わっている』自分に、絶望し続けながら、終わり続けながら、それでもせせりは生きている。

 傷が出来れば下手な消毒をして、とりあえず絆創膏を貼って、ひどい時はちゃんと病院に行く。
 母親に何日もご飯を食べさせてもらえなくても、真冬の夜に家から放り出されても、もう自分で何とかできる。
 せせりだって人間だから水を飲まなければ渇くし、ものを食べなければ飢える。傷から黴菌が入れば病気になるし、怪我は悪化する。そうなれば苦しい。とても、苦しい。
 けれど、母親が自分をそうしたいのなら、それは"そうあるべき"なのだろう。それなら自分は、一切の抵抗をするべきではないのだろう。
 そう思っているのに、せせりの身体は生きようと足掻く。嫌いな自分でも、生かそうとして、生きようとして本能がうごめく。
 生きていたって良いことなんてないから、いっそ死んでしまえばいいのにと思った。けれど自分は案外欲張りで、出来れば生きて幸せになりたかった。生きて、母親を幸せにしてあげたかった。母親の隣で幸せになりたかった。
 その母親に殴られながら、幸せになりたいなあ、とぼんやり思うことがどれだけ愚かか。
 そんなのは、夢だ。
 幸せな、夢。
 叶わないのに捨てられない夢。



蛇ノ目せせり。
十四歳。三月十六日生まれ。中学三年生。
父親は妊娠が発覚する前に失踪、現在母親と二人暮らし。
叔母の勧めでカウンセリングを受け始める。週ごとの通院は欠かさないが、会話を通じて本人に積極性は見られない。質問を行えば円滑に答えるが、自由に話すことを促しても何も語らない。
母親は精神不安定で患者は虐待を受けている惧れがある。また自傷癖の疑い。本人はどちらも否定しているが、身体に過剰に傷が多い。児童相談所への連絡を行うかどうかは未定。今の時点では患者の精神安定を優先することを第一と考える。
母親に対して強い依存状態にあると推測。母親について質問した時の患者の発言は常よりも円滑で当たり障りがないことから、虐待の事実を含め母親に対する心情を此方に隠そうとする意図が見られる。無理に踏み込むことで患者の精神に異常を来さないとも限らないため、充分な配慮が求められる。
引き続きカウンセリングを続行、投薬は様子を見て必要と判断すれば行う。




 剃刀。薬。荒縄。瓦斯。車道。屋上。電車。
 自分で死ぬ方法なんて本当にいくらでもあった。
 何も選べないまま、それでも何度か死にかけながら生きてきた。

 かなりの遠回りになるし、とろくさい自分はもしかしたら迷うかもしれないので無意識のうちに敬遠していたのだろうか、その入り組んだ道を遣うのはよく考えたら初めてだった。
 近くに大学があるらしくバスの停留所の間隔が狭い。人通りは決して多くないが全くの無人というわけでもなく、せせりの左側にある車道を、びゅうびゅうと車が走っていった。
 犬の散歩をする中年の女とすれ違いながら、家に向かって黙々と歩く。
 家に帰ってもすることはないし、誰かと何か話すこともないけれど、もしかしたら扉の中に入れて貰えないかもしれないのだけれど、それでも一応歩いて帰るのは何か期待しているからか。
 きっとたくさんの愛があるのね。
 またカウンセラーの言葉を思い出した。
 左に曲がる。その次は右。曲がり角のたびに背伸びをして目印代わりの遠くのビルを探す。その方が時間の短縮になりそうで、大きな自然公園を突っ切って帰ることに決めた。子供が遊ぶ遊具の公園というよりも、ジョギングやサイクリングに使われるような、緑の多い広い公園だ。別に悪いことはしていないのだが、公園前の派出所の立ち番警官の視線から逃げるように、自然と早足になってしまう。
 同じく公園内を突っ切ろうとしている人間と何度かすれ違いながら、その度に彼らと視線を合わさないよう、知らず俯きを深くしながら歩く。それを会釈と取った誰かが会釈を返してきたが、せせりはびくんと震えるのみだった。
 愛なんてない、どこにもない。少なくともこの身体の周りに、そんな上等なものがあるもんか。
 喚き散らしたくなる気持ちを抑え、一歩一歩前に進むことだけ考える。
 気に入って履いているトウシューズが、泥で汚れた何かを踏み締めた。
 そこでやっと顔を上げる。
 目の前に、桜の森が広がっていた。
 歩みを止めると、花弁がひらひら、ひらひらと舞い落ちる様がよく見えた。けぶるような白、薄い桜色は、何だか視界をぼやかす効果でもあるのか、せせりは暫く歩くことを忘れた。ああ、この公園の名物はこれだったのか。どこかで聞いた、隅に押し込んでいた記憶をほどき出して、ほう、と息をつく。
 前髪で隠した瞳の奥からでも、それは、綺麗な光景だった。
 けれども何故だかひどく厭だった。


 桜は美しく散るために生まれたのだと言う。永遠の命なんて要らない、代わりに眼も眩むほど美しくありたいと。せせりはそれを思い出すたび、自己愛だなあ、ちょっと怖いなあ、とか思うけれど、それでもせせりが知っている中で一番美しい人の姿を、散り続ける桜の花にいつもこっそりと重ねている。
 ――おかあさん。
 あんたなんかに触ってやらないわよ、とでも言うように、目の前をひらひらと花弁が落ちていく。
 それでいいとせせりは思う。
 理由はさっぱり解らないが、自分の膚の上を花弁が滑っていく情景を想うと、なんだか背筋が冷える感じがする。
 泣き叫びたくなるような。
 実際にそうしたことがあるような。
 ――いつだったかな。
 ――あったっけ、そんなこと?


 今年も桜が散る。
 立ち竦んでいた自分に気付き、慌ててさくさくと歩き出す。
 公園の中に造られたそれは精々小さな林くらいの面積しかないのだが、樹と樹が密集して植えられているせいか、どちらかといえば森に思える。その中を、歩く。膝まであるワンピースの裾が絡み、底の薄いトウシューズが花弁と土に取られて、なかなか速くは進めない。
 そうこうしている内にまた誰かとすれ違いそうになり、せせりは端へ避けて、歩くスピードをわざと落とした。
 さくさく。
 さく。
 すれ違う一瞬、その人の肩に桜の花弁が積もっているのが見える。
 その、大きな肩に、
 さくさく、
 さくさく、
 後ろを進んでいく、遠ざかっていくその人の、肩に、
 ……白い、
 ああ、

 ――灰に似た

 ――小さく叫んだのが自分だとせせりは暫く気が付かなかったし、開いたままだった自分の口を押さえてからも自分が今何を口走ったのかさっぱり理解ができなかった、ただ先刻からこの桜並木に降り続いている白い桜、花弁が肩を滑っていく情景、想像するだけでも哀しくて哀しくてひどく厭できっとそんなのは小さい頃桜並木で母親に置いて行かれたことがあるとかそういう理由に拠るもので大して珍しくもないありふれたトラウマだと思っていたのだけれど、けれども目の前をたった今すれ違っていった、確実に自分とは逢ったことがないはずの男のひと、彼と桜が、(彼と灰が、?)視界に同時に入った途端になんだか、眼が滲んで、
 ――灰? どうして?
 ――どうしていなくなっちゃったの、――くん。

 頭の中で誰かが泣く。
 せせりはもう一度振り向いてみる。
 遠い、遠い、後姿だけがそこにあった。

 ――呼び止められない遠い背中。
 ――どうしていなくなっちゃったの。
 誰かが泣く。自分ではない誰かが、見たこともないあの背中を想って。

 高揚、むやみに激しくなる鼓動、意味もなく抱きついてしまいたくなる衝動、ふるえる涙腺、痛み、痛み、湧き上がる喜び、それと同じくらいにおそろしい気持ち、真新しいなつかしさ、埋もれてしまった見たこともないもの。痛くて、怖くて、淋しくて、けれど幸せ、想うだけで、幸せ。
 今まで感じたこともない、知らない気持ちを"思い出す"。

 ――それを愛と呼ぶのなら。
 世界はもしかしたら、変わるのかもしれない。





continued ... ?