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おや――ようこそ。 若い方がこんな老いぼれに何の御用で――。 む。 おやあ――これはまた珍しい絵でございますな――。 人狐絵など一体どこで手に入れなさったか、この年寄りには判りませんなあ。 おや。あなたがお描きになった。ほほう――お上手であられます。 いやいや、若さというものはそれだけでも充分に才能で。 ……ときに若い方。 この人狐たち、何かを見てお描きになられましたかな。 いえいえ贋作などと申す積もりはございません。 ――ああ然様で。 女の狐にお会いになった。 男の姿はそれが話したと――。 いや、どうして、よく似ておりますよ。 ……この二人は、けものでございます。 ええ。 けもの、なのでございます。 右の女も、同じくに。 耳も尾もございませんが、けもの、でございます。 狐、ですなあ。 ……なに、この二人の話。 生憎ではございますが、身共もこのような老いぼれで。 もう記憶もすっかりと薄れかけております。 それでも、宜しいですかな。 ……ふむ。 こうして人に話すのは、終ぞ初めてのことでございます。 至らぬ処もあると存じますが……。 この二人は、随分に恵まれた生き物でございました。 少なくとも、この爺にはそう見えておりましたよ。 ひとでは珍しい双子もケモノでは茶飯事。鼠等はほれ、八つ子以上を平気で産みますでしょう。 二親がそれぞれ別の生き物であるゆえに、どちらの血を強く引いたかで外見は異なってありましたが、 それはそれは仲の良い、朱毛と金毛の人狐でございましたよ。 迂闊な心で山へ入れば金毛の姐に誑かされるぞ、 悪しい心で山へ入れば朱毛の弟に迷わされるぞ―― などと、当時の人間は申したものでした。 そういう意味ではどちらもきちんと果たしておったんでしょうかなあ。 ひとに畏れられることが彼らの仕事でございます。 そうすることで――御山(おんやま)を守る。 けれども、まあ、どちらも愉賊な所がありましたからなあ――特に、はい、姐狐の方ですな。 狐の血が濃く山で育った弟狐に較べまして、ひとの血が濃く里で育った姐狐の方が、より天性の狐であったとは――何ともこの世は面白いものでございます。 そう、そう、これは姐狐の言葉でしたかな。 この世は面白い――と。 まるでこの世ならざる処からやって来たような口振りで、周囲を煙に巻くのが好き。そんな娘でございましたよ。 どちらが優れているのか、どちらが愛されているのかと、兎角ひとは較べたがる。 まこと憂き世は大変なものです。 けものが本心そんな気を起こすのは繁殖期だけでしょうな。 けれどもこの人狐らは一寸珍しい生き物でしてな、ひととも狐とも子を生す事が出来ません。 御山の主、生きて生きてついには神となった大狐と、麓の里の娘。 狐は娘に恋をした。 幼いころからたいそう――美しい娘でねえ。 狐は娘を山に連れた。 娘はまだ数えで十になったばかりの、まあ、童でありました。 けれど不思議に大人びて……巫女のような風情でございましたから、神隠しに遭った時分には村の人間も口々に噂を致しました。 やれ、天狗に、やれ、山犬に、やれ、天照に。 食われてしまったのだ、いいや妾にされたのだ。 膨れ上がっていくばかりの噂など関せず、娘と狐はともに山で過ごしました。 五年、十年、時が経ちましてな。 そうして生まれたのが、 かの姉弟狐。 ええ。 この絵の、二人でございます。 血が半分ずつの半端者同士だからか、不思議と繋がりは深かった。 半端者姉弟の間にだけは子が生まれるであろうと、二人を取り出した婆狐がそう言った。 婆狐の八卦はよう当たる。外れたことがない。 ひとらしく生まれたものと、狐らしく生まれたものがおりましたのでな、ひとである母親はひとらしく生まれた方を里に連れ帰りました。 これが姐狐でございます。 里ではたいそう驚いた――十年も前に神隠しに遭った子が、狐の子を抱いて御山より降りてくる。 それは驚きますわなあ。 しかも娘は、何事も無かったようにきちんと歳を取っていた。 それでも、御山はやはりひとの世界とは異なる場所。 娘は美しい姿のまま、以後もとうとう老けずに亡くなりました。 ……まあ、それは別の話でございます。 娘、母親の、そのまた父親は村の分限者でございましてな。 可愛い可愛い娘のこと、まして一度は死んだと諦めていた娘のことでございます、力を尽くして村に再び居場所を作ってやった。 狐の子とはいえ、孫ですからな。 金の髪や緑の眼、恐ろしくも思いますが、それでも何とか迫害などはされぬようにしてやった。 閉じた村のことでしたし、今のように科学や文明や、そのようなややこしいこともございませんでしたから、村人が姐狐を受け入れるのには大して時間も掛かりません。 お若い方、疑っていらっしゃいますか。 巷では文明開化などと言いますが、いるのですよ、あやかしは。 ……おや。 信じていらっしゃる。 それはそれは……、 ……失礼ながら、珍しいお方ですな。 姐狐とは、どのような場所でお逢いに――? ――ああ、いいえ。 無理に聞き出そう等とは、思っておりませんよ。 ひとの子と同じように育った姐狐は、村の神社の鳥居の上でいつも遠くを見ていたそうでございます。 そう、丁度、御山の方角ですな。 姐狐がそこへ上るところは、終ぞ誰も見たことがございません。気付けば上っているし、見つけて呼びに行けばとッくに下りている。そんな高い所へどうやって上っているのか――誰も知りません。よじ登る姿も滑り降りる姿も、見たものはおりませんでした。 気味の悪い娘ではあったようですな、姐狐は。 ええ、それはもう、そうでございましょう。 受け入れたとはいえ村人も進んで話し掛ける訳ではない。余所者に口を噤むというだけの話です。実質、姐狐は村八分の状態でした。その母親も、遠巻きにされておりました。 生贄が山から戻ってきてどうするのだと、そんなことを言うものもおりました。 姐狐はいつも、鳥居の上で遠くを見ていたそうでございます。 村を眼下にずいと広げまして、けれどそんなものに視線は落とさない。 ただひたすらに、御山を見つめていたそうで。 分限者もやはり、そんな姐狐が恐ろしかった。 可愛い可愛い娘の産んだ子、愛しもうと何度思ったか知れません。 それでも、恐ろしかった。 話し掛けることも早々出来は致しません。 結局いつも娘ばかりに話し掛け、孫娘を避けるような形になってしまいます。 姐狐は何も言わず、ただ静かにそこにおりました。 いつも、いつでも、静かに、そこに。 内心で、何を思っていたのでしょうなあ……。 ……この老いぼれには、解りませぬ。 姐狐には耳も尾もなく、金の髪と白い膚、緑の眼だけがその異形を証明していた。 遠い異国にはそのような外見の方も大勢いらっしゃるそうですなあ。 けれどあれは確かに、人ならざるモノでございます。 赤子より村で育ちながらも、姐狐は全く言葉を発さなかった。 話し掛けても、肩を叩いても抱き上げても、ただにこりと微笑むだけ。 村人はその内に気味悪がり、狐憑きだとか、忌み子だとか、白痴だとか、そんな風に姐狐を呼びました。 分限者の祖父も勿論そう思ってはおりましたが、娘の手前はっきりとは口に出さなかった。 いや、出せなかった。 姐狐とその母は、言葉を交わすことこそございませんでしたが――何か強い、"つながり"でもあった気が致しますな。 姐狐は本当に、本当に一言も言葉を発しませんでした。 撫でられた時も、転んだ時も、引き出しに指を挟んだ時も、ただの一言も。 にこにこと微笑むだけでございました。 ……姐狐は、その名を…… イコ、と申しました。 依る狐、と書いて、イコ。 名付けたのは、その母親……これは、うた、と申しました。 漢の字にするのなら、歌、でございますな。 母親は、御山に居た間のことを殆ど言葉にしなかった。 ただぽつぽつと、山神さまの花嫁として迎えられていた、子を生したために里へ戻ってきた、そんなことを言うのみでございます。 山神さまはお前に酷いことをなさったのかと分限者は何度も問うた。 十年逢わなかった娘はまるで別人のように思えて、何度も何度も、不安を隠すように問うた。 そのたび母親は、首をゆるゆると横に振る。 酷いことは、なさらなかった。 とても、幸せであったと。 けれどお若い方、 この世はまこと、憂いもので。 娘がそう答える度、 分限者の心は、不思議に波立ったのでございますよ。 …。 ……。 お若い方。 老いぼれは少し、話し疲れてございます。 どうか続きはまたの機会に……、 ええ。 ……また、此処にいらして戴けますでしょうかな。 続きは、その時に――。 |
continued...
昔話。
続きます。
文/あろえ