……行こうか逃げようか君が望むままに


春の太陽は小さな雑居ビルの屋上へ燦燦と落ち、砂浜でよく見かける白いビーチチェアの上に寝転ぶ少女の髪を、きらきら、きらきらと白銀に光らせている。
たまぁに、雲が流れて太陽を隠す。するとその白銀の光は見る間に消え失せ、コントラストの下がった視界の中、彼女の髪はにぶい灰色に変わる。
それを見るたび、夢路は本人でもないのに……本人でないからこそ、早く陽が出ればいいと思う。
最近はなぜだか、馬鹿みたいに明るいものが欲しかった。血と肉と泥、暗いニュースばかりのラジオは電池を抜き取り、代わりに小さなCDプレーヤーを常に動かすことにした。適当に、目に付いたものを端から端まで買ってきただけのCDの山が、奇妙なバランスを保ってその横に積み上げられている。
ラジオを切れば現在の情報がわからない。逃亡者としては危険な選択だったが、それでいいと思った。


……最後まで付き合おう僕が果てるまで最高のエンドに辿り着けるから
……格好つけて云うわけじゃないけれどここには僕らしかいないみたい


今流れているのは、夢路も何度か聴いたことのあるグループの曲だ。この国で少女のステーシー化が進んでから、メンバーのうち一人がステーシーに食い殺された。ライヴ中のことだったとか聞いた気がする。生き残った二人はまだそのグループで活動を続けているというのが皮肉だと思う。音楽のクオリティは下がっていない、というのが一般の評価なのだ、夢路には良く解らないが。
ただ解るのは、音を遮るもののない青空の下、そのメロディは何だか悲しいということだ。別のCDに替えようかとも思ったが、立ち上がるのが億劫でそのままにする。リピートはかけていないから、どうせすぐに止まるだろう。
「なと?」
呼びかけたが、返事はなかった。
のそのそと近づいて顔を覗き込む。
「……なと」
どうやら、彼女は眠っているらしかった。
太陽が動いたのに気付いてパラソルを直し、小さな彼女の身体がすっぽりと影に隠れるようにする。
寝言を云うでもなく寝返りを打つでもなく、ただ静かに彼女は眠っていた。
手を伸ばしてそっと額を撫でると、少し伸びた前髪がさらさらと指の間を通っていく。それがくすぐったくて、気持ちよくて、事あるごとにそうしては顔を赤くした彼女に怒られたものだったが。
「……ゆめぇ?」
ゆっくりと目をあけた彼女には、そんな素振りは微塵も見えなかった。
「……ん。おはよ、なと」
云って、笑った。彼女に対して、笑いかけるのが癖になっていた。いつもいつも、そうしてきたからだ。意識してではなく、ただそこにいてくれるだけで、自然に笑顔になれたのだ。
「何してるの……逆光でよく見えないけど、泣きそうな顔よ?」
「え、まじ? 錯覚、錯覚」
「そんなはずないわ。……だって」

小さな、自分のそれと比べると本当に驚くほど小さな手が、すうっと伸びて髪を撫でた。
その手は重力に従うようにゆっくりと下り、夢路の頬に辿り着く。

「泣いてるじゃない」

頬は、濡れていた。



……どこから聞こえる情熱の歌が泣こうとしている君へと寄り添う

泣いてなんかない、泣くことなんてないよ。そう口に出せればこの瞬間何か変わるのだろうか。
ぎゅっと瞼を閉じる。ぼろぼろと水を吐き出す熱さが気持ち悪かった。情けない自分を、できれば見せたくなんてない。
「何を泣くことがあるの? ねぇ? よく見て、世界はこんなに奇麗じゃないのうふふふふ。私もつい最近までわからなかったけれど、空が青くて、ここからじゃ見えないけれどきっと海も青いでしょう、そこにある砂浜は白くて、カラフルな鳥が不思議な声で歌うのよ、想像するだけで、すごく奇麗だわ、うふふ、ねぇ? 大丈夫よ、ねぇ? 聞こえている? ねぇ? ああもう一体どうしたっていうの? 何を泣いているの、そんなに、うふふふふふ。誰かに酷いことを云われたのなら、大丈夫よ、私はあなたを大好きだから、私があなたを大好きだから、うふふ、ねぇ? 知ってるんでしょう? うふふふふ、ふふふふ」

ふわふわと、彼女は笑う。笑って、笑って、好きよ、と歌うように。
それは彼女の死が近いことを、どんな暗いニュースよりも鮮やかに示している。
ラジオを壊したって意味がない。CDを流したって意味がない。何もかもひどく鮮やかに見える、何もかも、何もかも。見えすぎる、鮮やかに見えすぎる、この逃避も、この先の死体も、そしてその死体がいつかゆらゆらと動き回ることも。

「……ねぇ、ゆめ、星の砂って知ってる?」
小さな手が、濡れた頬を優しく撫でている。



この逃避行には、廃れた無人ビルを使っている。
屋上にパラソルとビーチチェアを置いて、そこを彼女の指定席にした。CDプレーヤーと、その電池、それからCDを買い込んで、常に何かの曲を流している。飲食物は欲しいと思ったときに夢路が、または二人で、近くのコンビニまで歩いて買いに行く。あまり空腹にはならなかったが、夢路はやたらと喉が渇いた。彼女はそんな夢路を見て、うふふふふふ、と笑った。
「飲み物買ってくる、なとは? 何か飲む、または食べる?」
「…………」
「……なと? 寝てる?」
返事はない。
恐る恐る近付いてみると、すうすうと静かな寝息が聞こえる。よかった、と安堵の息が漏れた。まだ彼女は十五歳になっていないのだから、突然死することはない、ステーシーになることもないと解っているのだが。
夢路が喉の渇きを覚えたのと同じように、彼女はすぐに眠るようになった。ぐっすりと、深く、長時間眠るようになった。
パラソルの位置を少し調整してからゆっくりと背を向け、心配になって振り返る。何も変わらない。大丈夫だ、大丈夫だと自分に云い聞かせて、そっと離れた。
鞄の中から分厚い革の手帳と財布を掴み、音を立てないようにゆっくりと階段を下りる。五階建てのビルはきっと企業ビルだったのだろう、金融会社でも入っていたのだと思う。パイプ椅子や毛布、壊れたソファなどがあちこちの部屋に残されていた。
コンクリート打ちっぱなしの内装がひどく寂しい。白いペンキで塗りたくろうか、なんて考える。そうして、そこで、二人で暮らせたらいい、
ずっと。そうだったらどんなに、どんなに幸せだろう。
今度ペンキを買いに行こうかな、と思いながら階段を下りきり、ビルを出た。



街には女の子の姿が殆どない。
コンビニで2Lのミネラルウォーターと菓子パンを数個、それからメロンソーダとバニラアイスを買って外に出た。
春の陽射しが柔らかく瞼を刺して、不快なものではないはずなのに知らずと眉を顰めていた。

目の前の公衆電話に歩み寄り、荷物を一度地面に置いた。電話にテレカを差し込んで、家から持ち出してきた革の手帳……アドレス帳をぱらぱらとめくり、ラ行で指を止める。父親の字で走り書きしてある番号の通りにボタンを押すと、呼び出し音が二回で相手が出た。
「はい、こちらロメロ再殺部隊……」
「夢路です。彼女がニアデスハピネスになって、今日で三週間目です」
夢路は簡潔に用件を告げた。
電話を取った相手の、どこか苛ついたようなハスキーボイスが、暫く沈黙した。
「……」
やがて何でもないことのように「そうか」と短い返事が返ってくる。
「……久しぶりだね、夢路君」
「楽園さんも、元気ですか」
「ああ」

電話の相手は、確か両親のうちどちらかの知り合いだったように思う。遠い親戚だったかもしれない。
昔彼女が家に訪れた時の、長い黒髪とあまり変わらない表情が印象に残っている。
ニアデスハピネス、とは、ステーシー化する前の少女達が揃って浮かべる多幸感に満ちた表情のことだ。これから自分は死んでゾンビになりぐちゃぐちゃに再殺されると知っていながら、喜びでいっぱいの表情を浮かべる。何でもできるような気分になるらしい。ぐちゃぐちゃに再殺されることが楽しみになる、らしい。
臨死遊戯状様。

「……十四だったかな、彼女は」
「はい」
「状態は?」
「思ってたよりは落ち着いてます。寝てばっかりで……元々大人っぽい奴だったし、はは、そういうのも影響するんかなー、なんて」
電話の向こうで、かり、と何か書く音がした。何か書いてるんですか、と聞こうとして、やめた。電話の相手の職業を改めて思い出したからだ。
ニアデスハピネスの少女はやがて確実にステーシーに変わり、ゆらゆら歩いて人を食う。絶対に、絶対にだ。ただひとつの奇跡も存在しない。再殺部隊の分隊長がニアデスハピネスの少女の情報を得れば、当然どこかに書き留めておくだろう。いつか必ず屍となって動き回るものの存在を、見逃すわけにはいかない。手にかけるのはステーシー化してからとはいっても、危険な行動を取る場合はニアデスハピネスの少女だって彼らの再殺の対象になる。まだ死んだことのないものを『再殺』するというのもおかしい話だが。
それを理解しておきながら、なぜ自分は彼女に電話をしたのだろう。
「ステーシーになるのは、十五からですよね」
「それは凡その目安だよ、もっと早い少女もいるし、遅い少女もいる。個人差だ。……そう思っていたほうがいい」
「……」
「……君はどう思う?」
楽園の声は固く、唇の引き結ばれた様を想像させる。背後で何かがさがさと音がしていた。きっと仕事中なのだろう、とぼんやり考える。
「個人差なんだ。ニアデスハピネスになった少女は多幸感に満ちている。自分が蠢く死体になって百六十五分割されることすらあの子達には幸せなんだ、まるで着飾って甘いものを食べに行くような、幸せそうな顔で死に向かうんだ。大切なものがそんな状態になって、それでも長く一緒にいたいかな? それとも」
「……」
「それとも、いっそ――」

意図して切られたのだろうその言葉の先を予想するのは簡単だった。
――早く殺してあげたいかな――?
それについての答えは、浮かんでこない。
「わかりません」
「……そうか」
楽園はほとんど感情の感じられない声でそう云い、すまない、と付け足す。
「……いいかい、その時が来たら、ちゃんと再殺部隊を呼ぶんだよ。違法再殺請負人には頼まない方がいい、彼らは容赦がないから――容赦なんて我々にもないけれど……とにかく、君の居住区の担当は私の知り合いだから、一応話をしておくよ。私が行けたらいいかもしれないが、今、少し遠くにいてね」
「……はい」
「夢路君」
「はい」
暫く、ゆっくりと数を数えるような沈黙が降りた。
いち、にい、さん、よん、ごお、と頭の中で誰かが数を数えていた。
夢路の周りはしんと静まっていて、心臓の音が聞こえない。
「緊急事態が起きたら――君が再殺しなきゃならない」
「はい」
「ライダーマンの右手はあるかい」
「あります。今俺たち、家出中なんですけど……親父が持たせてくれました。『再殺のしおり』も、読みました」
「……そうか。変な話をしてすまなかったね……そろそろ切るよ、久しぶりに話が出来て嬉しかった」
「いえ、こっちこそすいませんでした、仕事中だったんですよね」
「いや、大丈夫だよ、どうせろくな書類じゃないんだ――ああ、そうだ」
外してくれ、と周囲の人間に伝え、楽園は声を抑えて云う。
「……私はここに男装して入ってるんだ。だからもし私以外の者が電話に出たら、一応代名詞は彼で頼む」
じゃあ、元気で。
そう云い残して、呆気なくぷつりと電話は切られた。
単調な信号音を流し始めた受話器を、ゆっくりと定位置に戻す。
かちゃりと小さく、音。指先でとんとんと、緑色の公衆電話を叩く。確かに、音。
なのに、途方もなく静かだった。



誰が音を食った?
誰が音を飲んだ?

誰が砂を食った?
誰が砂を飲んだ?



「……ねぇ、ゆめ、星の砂って知ってる?」
小さな手が、濡れた頬を優しく撫でている。
驚いたようにぱちぱちと瞬きをしてから、夢路は無理やり笑ってみせた。今にもまた泣き出しそうな、情けない顔になったろうなあと、自分で思う。
「……知ってるよ……沖縄とかのやつっしょ……?」
「ええ、そうよ、それよ」
「小瓶に入ってさ、コルクで蓋をされてて、踏んだら痛そうで」
「持っているだけで願いが叶うっていわれているのよ、だけどあれは砂でも石でもないのよ、あれは生き物の死骸なの、主に、生き物の死骸でできているの」
「……あんな形の生き物がいるってこと?」
「やぁだ、違うわ、そうしたら誰も星の砂なんて買わないわ、きっとその生き物を飼うわ」
「あ、そっか、そうだよな」
「あれはねぇ、海の中にいる小さな生き物の殻なのよ、殻を持った単細胞生物の死骸なのよ。それは海をゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆらゆら漂いながら生きていて……バキュロジプスナ、というの、彼の名前はバキュロジプスナよ。有孔虫という小さな生き物なんですって、バキュロジプスナが死ぬとその殻は海の底に溜まっていって、軟らかい泥や何かのもとになるの。きっと何千何万といるんだわ、彼らが死んだあと、その殻は海の底に溜まっていって、そうしてね、いつかいつか浜に打ち上げられてね、あんな星型の砂になるのよ、あんな綺麗な砂になるんだわ」
夢路は頷いた。
何度も頷いた。
「バキュロジプスナには仲間がいるの、同じ有孔虫なんだけど、その仲間は星ではなく太陽の形の砂になるの、名前はカルカリナ」
「……変な名前」
「どちらが?」
「どっちも……バキュロジプスナ、うう噛みそう」
「うふふ、素敵よね。ねえ、ゆめ、私もバキュロジプスナやカルカリナのようになりたい」


……舌で転がしながら記号化した言葉に助けてというワードは無いようだ
……君はボイルした時計の皮むきに夢中になってる


「ゆめ、私の再殺の権利を貰ってね、あげるわ、捨てたりなんかしないでね。私も星の砂や太陽の砂になれるのかな、試してみる価値はあると思うの」
「……うん」
「百六十五分割される前に海に放り込むんじゃ駄目よ。舌を出しながらバシャバシャ泳いでもしかしたら別の大陸に着いてしまうかもしれないもの、だから駄目よ、ちゃんと再殺してね? ちゃんと再殺してね? ちゃんと再殺してね? 三階の部屋のおんぼろソファの陰に隠してあるチェーンソーで、ちゃんと百六十五個に分割してね」
「――ッ」
「私知ってたんだ、ゆめが泣きそうになりながらソファの陰に隠すところを見ていたの。自分で買ってきてくれたの?」
「……ううん……親父が、くれた」
「お父さまにお礼を云ってね、お父さまを恨んだりしないでね。ライダーマンの右手は何色をしているの?」
「白、真っ白だよ、親父も趣味悪いよな、白なんて、趣味悪いよな」
「私は白って大好きだわ、赤も好きよ。だから、ライダーマンの右手はきっといい色になるわ、私の好きな色になるわ」
「……白と赤なんて俺は嫌いだよ……」
苺の乗ったショートケーキを連想できれば、白と赤は素晴らしい色だ。甘くて美味しい色だ。けれども今の夢路にはそうは思えない。彼女の髪に血が飛ぶところを、彼女の肌に血が飛ぶところを、彼女の服に血が飛ぶところを考えてしまう。無理やりショートケーキの映像を引きずり出してきても、チョコンと乗っかった苺は、いつの間にか切り落とされた彼女の生首になっているのだ。真っ赤なゼラチンで包まれた生首。
「そうなの? うふふふふごめんね、だけどそうなってしまうのよ。だから仕方のないことなのよ。泣かないで。ねぇゆめ、きちんと再殺し終わったら、私の身体は海に捨ててね。そうしたら私はゆらゆらゆらゆら漂って海の底に溜まっていって波に流されて、星の砂か、太陽の砂になれると思うの、泣かないで」
「泣いてないよ……」
「泣いてるわ、情けないわね」
「…………っ」
「ほら、溢れたわ、どうしちゃったの?」
「……そんな……元気だった頃みたいに、云うからだ……っ」
「私は今でも元気だよ、ゆめ? とっても気分がいいのよ。何も変わっていないわ。むしろ幸せになっているんじゃないかって思うわ」
「――……っ」
「あ」

ぎゅう、と抱きしめた身体は、相変わらず小さくて細かった。最初に逢ったときのことを思い出した。その次に逢ったときのことを思い出した。涙が出た、涙が出た、涙が出た、もう反論できないほど確かな自覚を以って、情けなく、夢路は声を張り上げて泣いた。
ゆらゆら歩いて人を食う、舌出して歩いて人を食う、ステーシー。
ステーシー。

「……なとなら、月の砂になれるよ」
「あはっ」
嬉しい、と彼女は笑った。ありがとう、と云って。
ごめんね、と云って。
「キスしてお別れしましょうか、ステーシーになったらキスなんてできないもの。ゆめの唇を食いちぎってしまうだろうから」
夢路はゆるゆると首を振る。コンクリートの床に二人で座りこんで、自分の胸に彼女を押し付けるように、閉じ込めるようにしたまま。
「キスしたらお別れなら、しない」
子供のような駄々をこねて、ゆるゆると首を振る。
「わからないわ、キスをしてお別れかもしれないし、キスをしても暫くはお別れじゃないかもしれない。だけど、しないまま終わりがくるなんて、私はいやだわ」


……どこから聞こえる情熱の歌が泣こうとしている君へと寄り添う
……恰好つけて云うわけじゃないけれどここには僕らしかいないみたい


そっと触れるだけの幼いキスを、啄むように何度か繰り返す。
「――キスしたって、終わりじゃないさ」
そうね、と彼女は笑う。
「――大丈夫だよ、まだ、ニアデスハピネスになってから三週間しか経ってない」
そうね、そうね、と彼女は笑う。
くくくくくっ。
くくくくくくくくっ。
「そうだ、さっきコンビニ行った時にアイスとメロンソーダ買ってきたんだ……アイスはもう溶けちゃったかな……でもメロンソーダ、飲むだろ?」
ええ、ええ、ええ、と彼女は微笑む。
「紙コップ取ってくる。ちょっと待っててな」
「ええ、いってらっしゃい」
「ん」
「ゆめ」
「え?」
「ありがとう」
「……いいよそんなん、メロンソーダくらいでお礼なんか」
「ごめんね」
「むー、だからって謝らなくてもいいんだけどなー?
 ……まあ、…………うん、……行ってきます」
「いってらっしゃい」







いってらっしゃい。





夢路は屋上の扉をゆっくりと後ろ手に閉め、抓みを回して簡単な施錠をした。
そのまま三階に下りる。ここにはカセット式のガスコンロやら、割り箸やら、小さな薬缶やらが一通り置いてある。その中から少し大きめの紙コップとストローを二つずつ掴み出して、左手に持つ。
長い、長い、息をついた。
俯いて瞼を下ろす。
吐いた分だけ、息を吸った。
目を開けて、スプリングのはみ出したおんぼろソファに歩み寄る。色褪せて元の色が解らなくなりかけたそれを横に動かすと、壁との隙間に、それはあった。
ずしりと重い純白のそれを、右手に持って階段を上がる。



扉を開け放つと、そこには予想通りの光景が広がっていた。
空が青かった。
申し訳程度のフェンスの向こうに、気が遠くなるような青空があった。
青空、パラソルと、白のビーチチェア。まるで砂浜のようだけれど、ここは違う。
星の砂も、太陽の砂もいない。
夢路はゆっくりと歩き、倒れている彼女の枕にしゃがみ込んだ。

「寝るなら、チェアに行こうよ……おんぼろソファでもいい? スプリングはみ出てるけど。なとー。なとりってば。風邪引くよ、起きないの?」
「コップとストロー持ってきたよ。さっきはごめんな、泣いちゃって。アイス溶けちゃったもんな。次はちゃんとクリームソーダ食べよう。喫茶店にでも行こうか、氷とくっついてシャリシャリになったアイスって美味しいよな、まあどうでもいいんだけどさ、それは」
「なと、さぁ、月の砂になりたいんだろ……海、探そうな。綺麗な海がいいな。どこがいいかな。北じゃあ寒すぎるから、やっぱり南にしよう。電車乗り継いで、南の海、探しに行こうな。バキュロジプスナとカルカリナがいる所がいい。月と星と太陽が揃ったら、何か怖いものなしっていうか……そんな感じしない?」

彼女は答えない。
寝息は聞えない。

「これが終わったら、まずボストンバッグを買いに行こうと思うんだ。さっきコンビニに売ってたの見た気がする。それで一緒に南に行こう、ちょっと狭いかもしんないけど、なるべく大きめの買うからさ」

彼女は答えない。
ライダーマンの右手のスイッチを入れると、ぶおおおおおおむ、という荒々しい音がした。積もっていた埃がぱっと辺りに舞い散って、日光を受けてきらきらと光る。

「月の砂になれるようないい海を見つけたら、俺はずっとそこに住むから。再殺部隊になんかならない。そこに、ずっと住むよ」

ぶおおおおおおおおおおおおおおおおおむ!
ぶおおおおおおおおおおおおおおおおおむ!
紙コップとストローを投げ捨てる。
チェーンソーを握る右手に、自分の左手をそっと添えた。
ぶおおおおおおおおおおおおおおおおおむ!
ぶおおおおおおおおおおおおおおおおおむ!

「いつかお前が月の砂になって浜に流れ着いたら、それを拾って小瓶に入れるよ。枕元に置いて毎朝、おはよう、って云う。外に出るときは持ち歩くし、瓶はいつも綺麗に磨くよ。俺が死んだら、一緒に燃やしてもらう。そんなの、どうかな。 お前を海に沈めた時に俺たちは離れ離れになるけど、そうやって、また逢えたら、それでチャラだよな」

「だから、戻っておいでね」

唐突に。
呼吸をしていない彼女の指が、蘇ったようにぴくりと動いた。
挙動は数秒もかからず激しさを増していく。たたたたん、たたたたん、と細い五指がめちゃくちゃにコンクリートを叩いた。たたたたたん。たたたたたたたん。
やがて腕もびくびくと動き始め、それは脚に移り頭に移り、ついに身体全体が大きく跳ねるようになる。
魚のように。
もうすぐ殺される魚のように。


長い、長い、息をついた。
俯いて瞼を下ろす。
吐いた分だけ、息を吸った。


ライダーマンの右手が、咆哮した。








end.



リスペクト大槻ケンヂ!
ファンの方々に平謝り!(二度目)

夢ナト逃避行、ニアデスハピネスからステーシー編。
最後、ナトたんが死なないラストもあるのですけど、こっちの方が自然かなあと思ったり。

あ、文中のポルノグラフ○ティについての記述はフィクションですよ。

ダダ長い文を読んでいただいてありがとうございました!

文/あろえ