matiere
悲嘆に暮れ欺かれたふたりの女がきみを圧しつぶすことだろう。同盟を結んだふたりの女はきみを打ち破り、きみは廃墟と化し、生命の外見を保ったまま、無意味で醜悪な仕事をはたしつづけるにすぎぬ屍体と化してしまうことだろう、ふたりの女は、彼女たちの希望と荒廃と、きみの愛の虚偽の上で、憎しみを抱きながら声もなく泣くことだろう。(Michel Butor, La modification /1957)
ぬるい空気、それから温度。かわたれ、たそがれ。ベッドに横たわるひとの、投げ出された白い脚やなんかに、とにかく何か見出してみたり。秒針は規則正しく、背後から世界を切り刻む。
洗わない食器、脱ぎ捨てた服、使いっぱなしで乾いたタオル、片付けないヘアブラシ、薄っぺらな雑誌、半分あけた酒瓶、飲み切らないグラス、鳴らない携帯、分厚い本、傷の多い万年筆、昨日の残りのトースト、放り投げたCD、何のだか判らなくなったリモコン、倒れて土の溢れた植木鉢。
数え切れないほど色んなものがそれぞれの位置を把握されないままばらばらにとっ散らかったこの部屋。そこにも平等に時間は流れているんだなあなんて、こんな当たり前のことを当たり前じゃないみたいに考えてしまうほど、正しく気違いじみて時間は流れる。
たとえば銃弾の駆け回る戦場、たとえばオペラ座、たとえば殺人鬼達が棲む山上、たとえば、そうたとえば、赤目兎の墓場にだって同じように。
夕方が来て世界は死んで朝が来たらまた産まれて、産声のように呼吸のように朝日が射して夜を殺す。天を指して。
時間てやつは本当にどこまでも、どこまでも全世界に向けてフェアマンだ。
自分の思考の馬鹿らしさに、思わず右の頬が吊りあがった。笑顔によく似た表情になった。
セルフ・シアトリカル・独り芝居。
声は、頭の上から聞こえた。
「……何でにやにや笑ってるんだ」
「ああ、おはようクラピカ。素敵な目覚めだね」
まるでどこぞのゾンビのごとく、ベッドから上半身だけ起き上がったクラピカに爽やかな作り笑顔を向けてみたが、残念ながら同じものは返ってこない。
ステーシー・ステーシー。
ただ、睨むような険しい目で、「今何時だ」と聞かれた。
俺は床に放り出した身体を動かさず、へらへらと目を細める。
「十七時四十八分」
「……にしては、明るいな」
クラピカは寝起きの顔を窓に向け少しだけ歪めた。
「そうなんだよ、実はあんたが寝てる間に大変なことがあってさ。あんたは自分で数時間しか寝てないと思ってるかもしんないけど本当は茨姫のごとく爆睡していてね、その間に地球の自転が変化して地軸が動いて何か色々あって、結局のところ世界はそろそろ原因不明の異常豪雨で埋め尽くされ沈没しそうなんだ」
「馬鹿」
一蹴された。
「やっぱり?」
笑う。そんな馬鹿な話あるはずもない。夏の夕はそれでなくても明るいものだ。
ベッドを占領して半日眠っていたクラピカ。寝すぎで少し腫れた瞼とか、きっとまだうまくニューロンが接続できていないせいで酷く大儀そうに動かす四肢とか。ああ何だか人形みたい。オートマータ。からくりで動く奇麗な人形。ピエロに操られて行儀よく笑う。
……ああ、クラピカは笑わないか。
それならきっとビスクドールだ。白い陶器の、動かない、笑わない、人形。
「……あんたの体にはさ、何が詰まってんの?」
「はぁ?」
「……や、ごめん何でもない。血と肉とその他いろいろだね、俺が馬鹿だった」
ネジとボルトとバネと歯車と鉄くず、あるいは陶器で中は空っぽ。
そんな答えが帰ってくるとは勿論思っていなかったが。
あんまり厭そうにこちらを向いたその顔に、何だかその下らない考えを、突き詰めていく気が失せた。
ぬるい空気、それから温度。世界は決して快適じゃない。
前を向けば背中を斬られて後ろを気にすりゃ腹を刺される。
……いつのことかは解らないけど。
凶器はきっと時計の針。
「あんたの人形、作ろうかな」
「悪趣味」
「ほっとけ」
「呪術でもかけるのか」
「それ俺、あんたの中でどんな位置付け?」
にぶい笑い。
喉を震わす。
二人。
「雨?」
「晴れてるよ」
「この音は?」
「耳鳴り」
泥にずぶずぶとと脚を取られる。
あるべき焦燥感は朧に解されて掴み所を失った。
リアルはいつだって悲しくて無惨だ。
汚い部屋を片付けていけば何だって上手く行き出すよなんて、揶揄って、戯れてみたって。
いつだって。
「……お前の中には、何が詰まってるんだ?」
ようやくニューロンが繋がったのかそれとも血圧が上がってきたのか、少しだけ柔らかくなったクラピカの声が耳元に。
変化というもおこがましい程の僅かな変化を感じ取れる自分にこっそりと拍手。
俺はあんたが好きで仕方ないらしいよ、どうするクラピカ?
口に出さない疑問形。
「――ん……愛とか?」
「はぁ?」
「……間髪入れずに聞き返されると何かムカつくね」
「いや、でも、おかしいだろう」
「何がだよ」
「お前がそんなことを云うのはさ」
「俺だって愛だの恋だの云いたい瞬間があんの」
「へぇ」
「信じらんない?」
「往々にして」
「しっつれえしちゃーう……」
でたらめな節をつけてワンフレーズだけ歌う。
呆れたような無言でベッドを軋ませて床へ降り、食事でもするか、とキッチンへ向かうその滑らかでない所作を銀色の視線だけで追いながら、湧いて出た面白くないような気分を俺はぼうやりと咀嚼する。
細かく砕かれていくそれがもういよいよ原型を留めなくなって、いつの間にか消えてしまった頃、カーペットを挟んで感じるのは半端なだけの床の固さ。
こうして寝転ぶ俺の中には何が詰まっている?
汚い部屋を見渡したって何もないのは、知ってる。
何も生み出さない倦怠。
何も生み出せない倦怠。
キッチンからは炙られるフライパンの悲鳴。
パンケーキだ、と、聞いてもないのにクラピカが云った。
俺の分もあるの?
そりゃあな。何云ってるんだ?
なんでもないよ。可哀想な子供の振りさ。
ここはあんたの部屋。
ここはあんたの隠棲する部屋。
白いカーテンとぼろいベッド。殺風景な安ホテルの一室。永住する人間ばかりの寄せ集め。
殺風景な部屋は淋しくて、そこに足を向けるたびに拒絶されているような気分になった。
有象無象の区別なく、何もかもこの部屋に持ち込んだ。
部屋はそのたび汚くなった。
快適な生活をなんて抜かしながら運び込んだいくつかの家具。
あんたの指はそこに触れることがあるだろうか、
俺のいる時は寝てばかりいるあんた。
「……クラピキーさん」
「何だ」
「変に優しいね」
「……失礼な」
実際のところ俺達はひどく可哀想で無残だ。それはもう、きっとあんたも認めている。
ぎらぎら太陽が怖いから、夜にならないと目覚めないステーシーのあんた。
夕飯にパンケーキなぞ焼いてしまうどうしようもない馬鹿っぷり。
視界の隅のテーブルに、山積された本、本、本。
――幸福論。
そろそろ読んでみようかな、なんて考えてる。
そのうちいい匂いがし始めたら、ここから立ち上がってキッチンへ行こう。ナイフやフォークを並べてやって、戸棚から蜂蜜を出して少しつまみ食いでもしよう。
愛されなかった子供の振りをしたい俺と、分別ある大人の振りがしたいあんた。会話の材料を、そうやって作っていく。
この部屋を綺麗に片付けたら多分、俺はもうここに来れない。
拒絶されてる気になるから。
神経質で聡いあんたが部屋を片付けようと言い出さない、ただそれだけに依存して、救われたような気になっている。
そんな可哀想な子供の振り。
「ねえ」
「何だ」
「本、読んでいい?」
「どれを? いいよ。好きに読め」
文字の羅列を視線で追っても変わるものなんてありはしない。凝り固まった俺の中身は溶け出すことを許さない。
本当は、あんたがいなくても生きていける。
あんたもきっと、そうだ。
それでもお互いがいないとどこか何かが傷つくような、そんな振りをしている。
本末転倒。
手段が目的に摩り替わったのはいつからだ?
変に優しいあんたと、へらへら笑う俺。
いびつながらに噛み合ったかけら。
いびつだから、それきりどこか引っ掛かって、離れない。
「俺さぁ」
「何だ」
「そろそろ漫画派卒業しようかなと思って」
「ふうん」
「いろいろ貸してよ」
「ああ。テーブルの、深緑に金字の装丁、その本は良かった」
「そうなの? へえ」
「前にも薦めただろう?」
「そうだっけ? 覚えてないよ」
「嘘だ」
「まあね」
ぺらぺらり。頁にはきっと、あんたの妄念が染み込んでいる。
あんたに逢いたくてここに来る。あんたと居たくてここに居る。
俺の中身は空っぽだ。
当たり前ながらあんたの存在は優先順位の下位にいて、
酸素のようにどうしても必要ってわけじゃない。
「キルア」
「なに」
「少しだけ焦げた」
「……いいよわかったよ食うよ俺が」
今よりもっと幸福になりたい俺達は、可哀想な振りをすることでそれを待つ。そんな陳腐な幸福論。
焦げたパンケーキでもいいんだ、汚い部屋に隠棲しながら俺を迎えてくれるなら。
相変わらず遠すぎるあの光を、見ない振りして笑ってようよ。
流し読む頁のどこかから、 四つ葉の栞が零れて落ちた。
それが元々どこに挟まっていたものなのか俺にはもう解らなかったから、そのまま足で蹴りやった。汚すぎる部屋の、汚すぎるモノの山、その中に押し込む。ぐい。蹴ったはずみで雪崩が起きる。ああもう駄目だな、救助不可能。
幸福の象徴。
死んじまえ。
「何をしてるんだ?」
「いや? 別に」
「ふうん。出来たぞパンケーキ」
「はあい」
鈍いのか、それとももう、どうでもいいのか。あんたは早くおいで、と優しい言葉をかけてダイニングへ向かう。そのダイニングも大概汚いのだが、ここよりはまだ益しだ。
「死んじまえ」
小さく、聞こえないように復唱する。細いその背を追いながら。押し花の四つ葉に、呪詛。
「死んじまえ」
あんたをこの部屋から奪うもの、
すべて。
蜂蜜の甘さと焦げた苦さ。
そんな陳腐な幸福論。