matiere
「……なあそうだろ、"まいった"なんてふざけてる! 俺だったら言わない――誰だってな。でもな、俺がどれだけ何を叫んだって、あいつは何も聞き入れやしないんだ。それでも言うしかねぇだろ――全くあいつらと来たら頭に血がのぼりやすくてプライドが高くて、きっと脊髄と運動神経がそのまま繋がってやがるんだな。そのくせ生意気にも、自分だけは冷静だなんていつでも思ってるような奴らだから。いつでもひとり冷静な俺が、損な役に回るしかないってこと……」
先生の語り口は軽妙で、いつも聴き手を退屈させない。時に大幅に脱線するので、眠くなることもあるにはあったが(香水の流行りや名女優の容姿になんか僕は何の興味もない)、じっと睨む僕の視線に気付くと先生は苦笑し、すぐまた僕好みの冒険譚を始めてくれる。あの時ほんの子供だった僕は、大人がそんなふうにイーヴンな扱いをしてくれることに感動し、この世にはろくな大人がいないけれども、この白い服を着た男だけはなかなか良い人間なのではないかなどと思い始めていた。
あの、くすぐったく誇らしい気持ちを忘れない。何があっても。
いつの時代も、子供は物わかりのいい大人が好きなのだ。そして大人と同じ視線に立ちたがる。彼らが積み重ねた年月など、一足飛びに越えられると信じて。
「先生、それでその人は? どうなったの?」
「ああ、そうだな……ちょっと待てよ、今カルテが書き終わるんだ……」
「もう! 試験だよ! 試合の話だよ! 彼はどうなったの? それでも降参したんでしょう?」
「わかった、わかったからそんなに揺らすな! ベッドの脚が折れちまう。…ん?」
「そうだな、折れると言えばな――」
「……そう、もちろん、あの時は全員固唾を呑んで見てた……俺もだ。隣にいた仲間も武器をぎゅっと握って……眼を真っ緋にして睨んでたよ。対戦相手はきっと、あいつの百倍は修羅場をくぐってる。あいつを見下ろす視線からいやでもわかった。びりびり伝わってきやがるんだ。三時間の拷問なんて考えられるか? ひとつひとつを俺たちは見てた。ついに腕が折られた時、俺は、すぐに治せば綺麗に繋がるのにとか、子供の骨だからきっと細いだろうとか考えて、必死に怒りを誤魔化した」
――脚を切られちゃうのはいやだ!
――でも、降参するのもいやだ!
「ふ」
話しながら何か思い出したらしく、先生は小さく破顔する。ずるいずるい一人で笑うなんて。詰め寄る僕にさらに声をあげ笑い、眼鏡を外して目元の涙を拭った。
いや、本当に、とんでもない奴だと思っただけなのさ――。
「――……あいつの眼は夕陽をあびてぎらぎら光ってた。いや――同時にまったく静かだった――」
「どういうこと?」
「……ちょうどおまえのその眼みたいに黒かったのさ。相手の逞しい腕には眼もくれずに、じっと――」
「どこを見ていたの? それならどこか睨んでいたんでしょう?」
「ああ……きっとあいつは」
「先生?」
「きっと――あいつは――……。」
身振り手振りを交えて話す、その賑やかさが好きだった。聞いている僕はいつだって興奮し、緊張し、彼の仲間に誇らしさを、襲い来る敵には血が脈打つ感覚を、収束する闘いのラストシーンともなれば全くすぐにも走り出したくなるような、途方もない感動を抱いていた。
今なら、それは共鳴だったのだとわかる。昔話の語り部としてではなく、かつて本当にその場に臨んでいた、ひとりの青年の燃えたぎるような感情。雨に似ていた。太陽のようでもあった。風でも、雪でも、例えるのなら何でもよかった。ただ随分待ち焦がれた後のように、胸に心地よく突き刺さる感覚だけがあれば、あの感情に例えるに充分だった。
「……先生」
けれどある時ある瞬間、先生の視線はふっと宙に浮く。遠いものを視るような、(想うような……) その表情。そこに僕は、かつての青年の感情を視てしまう、ふたたび。悲しみの理由などはわからない。僕にわかるのは当然ながら語り部が語る事柄のみだったのだ。一人称の小説を読むように、彼が口に出したことしかわからない。ただ寂しく、昔話の彼ら四人に僕だけが置いて行かれたようで――遠くて――それが何なのかはっきりとわからないまま僕は、ただ先生の横顔を見ていた。
「どこを見てたんだろうなあ――"あいつら"は」
夕陽に晒された小さな診療所が、あの瞬間僕の世界のすべてだった。肉体も精神も何もかもとろけるように紅かった、誰そ彼時という言葉に相応しい、揺らめくような幻がそこにあった。顔すら知らない彼らの日々、笑い声、すうと尾を残す影はまるで、ごうごうと渡る耳鳴りのようだった。幼かった僕の感受性をつよく刺し、そこに火花のような痛みを残し、きっと目の前の長身の男の心臓にも。
置いていかれたのは僕で、そして彼だ。
先生の話は楽しかった。楽しいばかりで、悲しさも寂しさも伝えてはくれなかったのだ。僕は子供で先生は大人で、その差を埋められない限りは。けれど裏切られた気持ちはしない、それよりも大きな感情があった。ふと、ある一瞬、言葉を続けようとして何かに絡め取られ、うすい唇をふるわせ黙り込む先生の表情。それだけが雄弁に、残酷なことがらの存在を教えていたから。
「先生――」
「明日は、あかい眼の話を聞かせてね」
振り向いた先生は、いつも通りに軽く微笑んでいた。細められた黒い眼には夕陽が照り返して、不思議にぎらぎらと輝いている。緋の眼の彼について聞かされた話を思い出しうつむくと、コツンと頭を叩かれた。
「おまえの眼、紅くなってるぞ」
ぎらぎらの陽射しはまるで断末魔のようだった。気付いてしまえば当たり前なこと。僕の眼もまた同じように、先生からは紅く見えていたのだろう。
あの時代僕らは孤独だった。昨日と変わらない夕陽の中、僕らは限りなく近い距離にいながら、きっと互いに違うものを視ていた。僕はかつて孤独ではなかった男の面影を、その人生と精神の重みに打ちのめされながら、それでもずっと追いかけていたのだった。