この世には言霊というものがあるんだよ、といつかあの人が言っていた。
もう思い出すのも懐かしい、あの黒いセーラー服。一年違いの薄灰のリボンは、あの人が音もなく歩くたび、ふわりふわりと揺れていた。長く改造された袖から白い指先だけを出して、白い、かなしい名前の煙草をじりじりと燃やしながら、夕陽に照らされて、窓辺に坐る、あの人。
――なんですか、それ?
幼かったわたしは訊く。石膏のような、けれどどこか儚い白い膚に、ぼうやりと見惚れて。
――言葉には力があるってことさ。
言って、あの人は煙草を吸い込んだ。先端が燃える。灰になる。
身体に悪いからやめてくださいと、どうしていつも言えなかったのだろう?
――口に出したことは、現実になる。その通りの現実を、言葉が呼ぶんだ。
細く伸びた煙草の灰を、わたしはずっと眺めている。
黒い髪。銀色。鋭い視線。たまぁに優しくなる口元。その細い身体を、直視するのがいつだって怖かった。
――お前にだって一つくらい、覚えがあるだろう?
ゆっくりとこちらを向くあの人の姿は。
右半身が――
燃えている。
黒い制服、アクセサリ、一切合財何もかも無事なのに。
あの白い膚が、あの黒い髪が、うじゃけて、火傷を負ったように引き攣れて、業火に灼かれて、いて。
――お前にだって、……あるだろう?
せんぱい、と呟くわたしの声は、もはやその世界のものではなかった。
わたしにも?
ああ。
でも、そんなこと。
本当に?
……。
本当に――?
――ああ、そうか。
――わたしが、いつも、煙草をやめるように言えなかったのは。
せんぱい。
何。
せんぱい。
何。
ゆぎせんぱい。
……。
『からだに、悪いから』
『やめてください――』
それを口に出したら、本当に、あの人の身体が悪くなってしまうような気がしたから。
……祈りのような、意識の、底で。
わたし、それ、知ってます。
そっか。
口に出したら、本当になっちゃうから。そうでなくても、口に出したことが本当に起きたら、責任感じてしまうから。
そっか。
でも、何も言わずには、生きていけないから。
うん。
だからね、よいことだけ口に出すんです。悪いことは、考えても、言わない。
うん。
辛いとか、かなしいとか、もうだめだ、なんて、絶対に言わない。
どうして?
そうなって欲しくないから。まだまだ、耐えなくちゃいけないから。
考えても?
考えても。
考えてるんだ?
……少しだけ。ないしょですよ?
笑ったな?
笑います。しあわせだから。
違うだろう? 幸せになりたいから笑うんだろう?
違います。しあわせ、だから。
……そっか。
そうです。
幸せか?
しあわせです。
そっか。
やさしい苦笑い。
ああ、覚えてる、まだこんなにも。
明日も生きていられますようにって、誰にでもなく祈ります。口に出すだけの、弱い、祈り。
それでもこうしてわたしは生きてるから、きっと本当にあるんでしょうね、言霊。
だからね、先輩。
ねえ。
いなくならないでくださいね――。
熱くないんですか、その火。
(痛くないんですか、その身体)
今でも解らない。その言葉を聴いたあの人が、どんな顔をするのか。
世界は揺らめく。
わたしは何もかも直視できない。
燃え続ける業火は、やがてあの人の全身をも飲み込み。
ぱさり。
床に落ちたのは、フィルターまで燃え尽きた煙草と、制服――。
厭、とか、やめて、とか、振り絞ったわたしの声は、もうその世界には響かなかった。もう、その世界のものではなくなっていた。橙の世界。夕陽の世界。学校。使われていない教室。あの人が手の届く場所にいたあの世界。もう永遠に不可侵な世界。あの影、煙草の煙、白い膚、もうどこにもないことはわかってる。わかってるよ、わかってます、だけどそれでも、それでも。
――夢くらい見せてくれればいいのに。
そうつぶやいた瞬間に、不安定に揺らめいていた世界は雲散霧消して消えてしまう。ああこれも言霊ってやつなのかなと暗闇に放り出されながら考えている。夢だなんて思ったから、自覚したから、だから本当に夢になってしまったんだ。あの優しくて痛かった日々に戻りたいのに、わたしはいつだってこの現実から逃げられない。わたしを包み込んだ前後も左右もない闇はまた一瞬で消え果てて、急激に現れた何かが背中に触れている。
閉じたままの瞼を擦り、ごろりと寝返りを打って、できるだけ緩慢に眼を開ける。
柔らかい、白い布団に、わたしは横たわっていた。
小鳥の鳴く朝。
窓からは朝陽が射して、畳の目を照らすように輝いている。
まなじりに溜まっていた涙が、頬を伝ってすうっとこぼれた。
眩しかったからだ――と、思うことにした。
現実に立ち戻ったわたしは、シーツに染みた涙の痕を、ぼうっといつまでも眺めている。
眠る前にセットした目覚まし時計がけたたましい電子音を鳴らし出すまで、本当に、飽きもせずに。
今日は久しぶりに皆に逢える日。
逢えるまでが待ち切れないから、誰より早くあの隠れ家で待っていようと思った。そのための目覚ましだったのだと、やっと思い出す。もう制服は着れないから、自分で服を選ばなくちゃいけない。お酒とお菓子を買い込んで、早く、早く、走って行きたい。
今日は久しぶりに皆に逢える日。
だから、いいことだけ口に出そう。
笑っていよう、幸せそうに。
あの橙の世界から、四年。
わたしは十九歳になった。
明日も生きていられますように。
それだけの祈りは強く、強く、
呪いのように、効いた。
continue, a la tragedie. / higeki e no asa ...