「お母さん、じゃあ、行ってくるね」
 パンプスに爪先を入れながら、背にした居間に声をかける。靴に爪先を滑り込ませる時の奇妙な窮屈さで、今から外へ 出るのだと脳が実感してくれる。感情を、表情を、自然とうまく切り替えられる気がする。
 新しく買ったばかりの白いパンプス。華奢な蝶の飾りが揺れた。今日の服に似合っていればいいけれど。
「……帰り、遅くなると思う。ごめんね。物騒だから、鍵閉めててもいいよ。家の鍵、持って行くから」
 いち、に、さん。頭の中でゆっくり数を数えた。返事はないから、玄関の扉に手をかける。往生際の悪い自分は、そこでもまた、いち、に、さん。
 応える声は、聞こえない。
 諦めて扉を押し開けると、一段と肌寒くなった風が身体に当たった。家の中に入り込ませてはいけないと、慌てて飛び出して扉を閉めた。ぱたん、と空気を圧縮するような音に、断絶されるこの世界。
「……行ってきます」
 それでももう一度声をかける。

「――いってらっしゃい。」

 扉の向こうから聞こえた声に、もう一度、行ってきますと囁いた。
 些細だけれど、大きな変化。
 せせりの母親は、最近少しだけ、本当に少しだけ、せせりに対して優しくなった。





「いーい、天気っ」
 見上げた空は、高くて蒼い。もうすぐ冬が訪れる。
 はぁ、と息を吐いたけれどもまだ流石に白くはならなくて、年甲斐もなく少し悔しいと思った。
 一歩ずつ、ゆっくりとアスファルトを進む。膝まであるワンピースの裾が、空気を孕んでふわふわと揺れる。上手に切り替えた自分の顔は、幸せそうに笑えているだろうか。眩しい黄色の、こぼれるような陽射しの中で。真新しいパンプスが、きらきら照り返す陽射しの中で。
 酒屋さんに寄ろう。お酒をたくさん買って行こう。途中でお菓子も買って行こう。お酒は重いからあんまり沢山は持てないけれど、きっと皆も買ってくるだろうからそれ位が丁度いい。
 え、何、お前も買ってきたの? え、みんなも?――なんて、笑うんだ。
 考えるだけでせせりの口元はふにゃりと緩む。
 今日は久しぶりに皆に逢える日。
 夕方の待ち合わせまで、まだ少し時間がある。


 大通りには、お祭りのような人だかりができていた。近くの神社で何か行事があるらしく、大鳥居の向こうに、人間の塊が飲み込まれたり、吐き出されたりしている。幟の朱色と、屋台の暖簾の色が、ちらちらと視界に浮かび上がる。
「――参詣人らも、ぞろぞろ歩き、」
 ふと思い浮かんだフレーズを、小さく口に出してみる。
 人の群れを逆流するように進む。いち、に、さん、し。いち、に、さん。
 明け方に見た怖い夢は、まだ胸の中に残っていた。その小さな切れ端を、爆発して飛び散った破片を、出来るだけ見ないようにして眼を伏せる。


 ――ねえ先輩、もしも口に出したことが現実になるなら、
   皆が一致団結して、よいことしか、望ましいことしか言わなくなればいいんでしょう。
 ――実現してほしいような、幸せな理想だけを口に出していれば、世界の、悲しみの絶対量は減っていくんでしょう?

 縋るような自分。そこからも眼を背ける。さて、だんだんと視線をやれる場所が少なくなってきたな、なんて、ぼんやりと客観。
「……わたしは、何にも、腹が立たない。」
 いはうやうなき、今日の麗日。
 口に出すのはよいことばかり。


 ――ねえ、こんな晴れた愉しい日に、こんなくだらないことを考えるわたしは、
   もうそれは本当に、とってもとっても愚かだと思うけれど、


「……奉仕の気持に、ならなけあならない。」
 この、もやもやした感覚は何だろう。晴れた空、善良な人の群れ、恐ろしいものなんて何もないはずなのに、この、追い詰められたような焦燥は何だろう。
 厭な予感にも似た寒気を、振り払って歩いてゆく。

「……テンポ正しき散歩をなして、麦稈真田を敬虔に編み」

 ――もしもそういう風に暮らせたら、哀しいことなんて起こらないのかな。

 哀しいのはいやだな、と当たり前のことをぼうやり考えながら、昨日出来たばかりの痣を撫でる。
 青紫のそれを、長袖の服が隠してくれている。
「まるでこれでは、玩具の兵隊」
 高校を卒業してから、せせりの毎日には一切の起伏がなくなった。あの頃毎日のように時間を潰していた繁華街にも、滅多に行かなくなった。偶に友人と逢うのが何よりも楽しみで、他には本当に何もない。家の中でぼうやりと、眠るか、本を読んで過ごしている。
「まるでこれでは、毎日、日曜。」
 ただ、単調な、単調な、日々。


 その詩の、どこか能天気な、ポカンとした空気が好きだった。最初に見たのはどこだったろう、中学校の国語教師が配った、くたびれた藁半紙のプリントだったかもしれない。クラスメイト達が厭そうにそれを眺める中、教室の隅で、縋りつくように読んだ。
 全部で三つの部に分けられた、決して短くはないその詩を、せせりはいつの間にか暗記していた。藁半紙は中学を卒業した時に捨ててしまったが、代わりにちゃんと詩集を買った。
 人に貰った、蝶のような蛾のような形の、きれいな色をした栞を、いつもそこに挟んでいる。
 最初から最後まで詰まらず言い上げることもできるのだが、今はぽつぽつと呟くのみに留めておいた。
 その詩の冒頭を、口に出したくなかった。現実に、なって欲しくなかった。


 うん、と背伸びをする。
 口角を引き上げ、眉を下げて眼を細める。わかりきった手順で笑顔を作る。少しは上手になっただろうか。
 笑って歩く。大丈夫、大丈夫、言い聞かせて歩く。
 奉仕の気持に、ならなけあならない。だから笑う。辛くっても、笑う。

 ――ああ、もう、まったく駄目だね。

 紙に皺が寄るように、くしゃりと自分の顔が歪んだことを、せせりは知らない。ただすれ違った見知らぬ人が、不思議そうにその苦笑を眺めた。


 笑うよ、笑うよ、いつだって静かに、微笑んで生きるよ。
 だからもう、哀しいことなんて、なあんにも起こらなければいい。


 ――どおん。
 背にした大鳥居の向こうから、何か鳴らす音がした。
 せせりはちょうど酒屋に入ったところで、その音を聴くことはできなかった。




dos / continue