――愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません。
その一節を、どうして今、思い出すのだろう。
二日酔いは予想よりずっと軽くて、目覚ましもないのにいつもの時間に眼が覚めた。
身支度を済ませ、台所に向かう。白飯をタッパーに詰める。卵をひとつずつラップに包んで、同じくタッパーの隅に入れた。クロスにそれを包めば用意完了。ジーンズのポケットに携帯を突っ込んで、昨日と同じパンプスを履く。
まだ眠っている母親に声をかけることは諦めて、そのまま、家を出た。
空は相変わらず晴れていた。
気温が低いせいか、しんと澄んだ蒼色をしている。
町は昨日の人だかりが嘘のように静かで、なんだか耳が淋しくなる。
住宅街に入り込み、やや狭くなった道をのんびりと歩く。卵に皹が入らないように気をつけながら、それでも少し浮つく気持ちを抑えるように、クロスを持った腕を揺らして。
突然、携帯が震えた。
液晶に表示されたのは、首輪を着けた少年の写真。
――ああ、違う、もう大人になったんだ。
昨日逢って、たくさん話して、笑い合って。帰り道にも電話で話した、料理の上手な年上のひと。
――この写真、変えなくちゃなぁ。今日は写真、撮らせてもらおう。
連絡無しに彼の家に向かって驚かせようとしていたのがばれてしまったのかと何度か首を傾げつつも、通話ボタンに手をかける。ひゅう、と後ろから風が吹いた。
――はーい?
――もしもし、どうしたの? あのね、今ね、ちょうどふたみくんの家に行ってるとこだよー。
――ふたみくん風邪気味だったでしょ? だから、お粥作ってあげようと思って……、
電話の向こうで、何か這うような音がした。
静かな、静か過ぎる、息の音がした。
十中八九、それは彼のものだと思うけれど。
でもそれなら、どうして、
――もしもし?
――こえ、きこえないよ?
どうして、何も、言ってくれないの、なんて。
――……ふたみくん?
訊く間もなく、電話が切れた。
――血が、頭の、中を、下り。
――そのまま、一気に、
――脚へ。
急に気温が下がったような、途轍もない寒気を覚える。落ちていく。落ちていく。心臓の音ばかりが酷くうるさい。ああ。ああ。自殺しなけあなりませんと、何度も読んだ頁の記憶。蝶なのか蛾なのかわからない栞の、原色の赤、それを自分にくれた人からの電話が、切れる、その、不吉。
頭の中で誰かが叫んだ。
わたしの声で悲鳴を上げた。
がらがらと何か崩れるような音がして。
誰かが、わたしの声で、絶叫した。
走り出すまでに、きっと一秒と掛からなかった。
――……愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません。
白いパンプスの爪先を、アスファルトの凹凸に引っ掛けた。バランスを崩す。つんのめって転ぶ。何度目だろう。打ち付けて熱くなった右頬に触ると、滲み出した血でぬるりと滑った。
首を振って立ち上がり、脱げたパンプスを履き直す。手に持っていたはずの荷物がないことに気付く。ああ、どこに置いてきたんだっけ。ご飯と卵、どうしたんだっけ。もういい、もうどうでもいい、そんなこと。
転んだ拍子に放り出してしまった携帯だけ拾って、また一気に走り出す。頬が擦り剥けたって、腕がなくなったって、脚さえ無事なら人間はいくらだって走れる。伸びた髪が風に攫われ、顔に纏わりついてくる。
全力で走って巡りが良くなったのか、傷口から温い血が溢れた。頬を伝う感覚が気持ち悪くて、手の甲で思い切り擦る。甲は赤くなったけれど、然程痛みを感じない。
ふわふわと浮かんで足踏みをしているような、どれだけ走っても前に進めていないような、どうしようもない焦燥。足は速くない。体力もない。力もないし、心だって全然強くない。弱くて情けないばかりの自分。心臓が、肺が、ぎしぎしと硬くなっていく。
早く走らないと。
早く。
電話の向こうで何があったのか、わたしは頑なに考えまいとしている。
考えたら、その瞬間に現実になってしまう。ほんとうに、ほんとうに、哀しいことが起きてしまう。
――欺瞞だろう?
もう、何があったかなんて、解ってるくせに。
視界が滲んだ。
湧き出した涙の粒は、後ろへ、後ろへと流れていく。
泣き虫のわたし。
――ああ、もう、まったく、駄目だね。
あれから四年も経ったのに。
相変わらず、泣き虫の、わたし。
哀しいことなんて、起きて欲しくないのに。
――……愛するものが死んだ時には――。
いやだ、やめて、やめて、やめて。
こわいの、こわいの、もういやなの。
いなくなったりしないで、とおくにいったりしないで、
そこにいて、ずっといて、わらってて、あたまなでて。
おいてかないで。
おいてかないで。
おいてかないで。
誰よりも早く死ぬことができていたら、
こんな想いはしなくてすんだのかな。
……最期まで足掻け、必死で生きろって、言ったのは誰だった?
※
彼の家までの道を、身体が覚えていた。泣きながら、涙を拭う間もなく、走った。
いつかの夜、彼の背に負われて、この道を通った。ああ、あの時もわたしは泣いていたっけ。
真夏の、蒸すような空気が、傷だらけの膚に纏わりついていたんだっけ。
階段を上り、飛びつくようにドアを開ける。
「……ッ」
眼がおかしくなったのかと思った。違う、おかしいのはこの光景の方だ。台所が、真っ赤だった。血まみれだった。鉄錆に似た血のにおいと、ふわふわと場違いに甘いコーンのにおい。
ここじゃない。足元の血痕を追って、リビングに駆け込む。
果たして彼はそこにいた。
「――ふたみくん! ふたみくんッ、ふたみくん!」
横たわって――違う、――倒れていた。
抑えていた涙がまた溢れる。身体を強く揺さ振ると、ゆっくり、ゆっくり、その瞼が上がる。掌が真っ赤に乾いていて、ああさっきの血はこれだったんだと頭の隅で考える。
止血しなくちゃ、と普通は考えるものなのかな。
倒れている原因が出血ではないことを、わたしは、心の奥で、ずっと前から知っている。
「……なんだよ、」
鳴り続けている心臓の音に掻き消されてしまいそうな、ひどく小さな掠れ声で。
「御前の方がぼろぼろじゃねぇか」
そんなことない。心臓と肺がつぶれそうに苦しいけど、それでも生きてて。蝶も出せる。鈍ってしまったけど、無様だけど。まだ、生きなくちゃいけなくて。
――けれどもそれでも、業が深くて、なほもながらふことともなつたら。
「……そんなことないよ……、」
首を振る。
いつもみたいに笑えたらいいと思ったけれど、無理だった。
「だったらなんだよ、そのきず」
震える手が持ち上がる。さっき作った頬の傷に、彼の赤い指先が、赤い掌が、触れる。あの時は痛みを感じなかったのに、なぜか今はひどく痛くて、小さく跳ねる。
彼の手が落ちてしまわないように、そっと握った。頬に触れた赤い掌はまるで何かの華のようで、温かくて、人間的な曲線を持っているからこうして触れられているととても安心して、優しくて、優しくて、優しくて――でも震えていて。
「……ひ、ぃ」
ずっと視界を滲ませていた熱い水が、ぽろりと眼から転がり落ちた。それで終わるかと思ったけれど、後から後から涙が湧いた。彼の掌に零れ、血を溶かす。まるで水彩の絵の具を溶くように、手首を伝って、赤い糸が降りていく。
「……ひぃ……っ」
ほろほろ。ほろほろ。涙ばかり溢れて、言葉が出ない。泣きながら必死で首を振る。いやだよ。だめだよ。どうして、どうして。頬の傷が心臓に合わせて、とくん、とくん、と波打っている。
「やぁー……、、どうして、……どうして、……やだよ、やだ、やぁ……っ」
ほろ。ほろほろ。
「……か、……くな……」
何か言おうとしたその喉は、ひゅう、と空気を鳴らしただけで終わる。それがはっきりとこの先を示すようで、怖くて、怖くて、わたしはもっと泣いてしまう。少しずつ赤の薄くなっている掌に縋るように、何度か大きくしゃくり上げる。
「――ごめんな……」
「やだ、謝らないで、口に出したらだめなんだよ、本当に、本当にね、哀しいことが、」
――ここまで来て、それでも信じたくないと、こんなの嘘だと、泣く。子供みたいに。
言葉に、ならない。
涙ばかり、熱い。
言葉に、ならない。
「――なくなよ、な? たのむから」
もう、どこか虚ろなその眼に、わたしの翠は映るだろうか。
幾筋も幾筋も赤い糸の伝った、震える腕が、さらに上へ、伸ばされて。
「――ほんとうに……たのむよ」
わたしの髪を、撫でる。
なかないで。なかないで。わらって。
驚いて、一瞬だけ、涙が引いた。
それでも何一つ言葉にはならなかった。
彼を見つめて、唇を何度か震わせる。
その、口角が、微笑むように、少しだけ持ち上がって、ああ、いつもみたいに、笑ってくれて、
――笑って、くれて……。
――瞼が……、
閉じた。
――愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません。
その一節を、どうして今、思い出すのだろう。
『足掻いて這いずって必死になって泣き喚いて、痛くても、恰好悪くても、ちゃんと生きるよ――』
だって、約束してしまった。
最後まで生きる、投げ出したりしないって、約束してしまった。
業が深くて、また失って、それでもまだまだ、生きなくてはならなくて。
奉仕の気持ってどういうものか、未だによくわからなくて。
たった三桁の番号を押すのに、馬鹿みたいに指が震えた。涙ばかり溢れて、それでも声は奇妙に冷静で。電話の向こうに救急ですとはっきり告げながら、自分の性質を心から呪う。
――ねえ先輩、口に出したことが現実になるなら、
皆が一致団結して、よいことしか、望ましいことしか言わなくなればいいんでしょう。
――実現してほしいような、幸せな理想だけを口に出していれば、世界の、悲しみの絶対量は減っていくんでしょう?
そんなわけないって、知ってたけど。
そうだったらいいなって、思ったんだよ。
「携帯の、写真」
「まだ、あの頃の、ままなの」
「変えなくちゃ、いけないよね」
「わたし達、大人になったのにね」
「大人に、なれたんだよ、ふたみくん?」
「ここまで、生きてこれたんだよ……?」
「どうして、もう、駄目なの……?」
床に落ちた腕を取る。
力の入っていないそれは、まるでゴムの人形みたいで、だけど本当に大好きなひとで。
やがて遠いサイレンの音と。
ばたばたと、人の気配。
笑うよ、笑うよ、いつだって静かに、微笑んで生きるよ。
だからもう、哀しいことなんて、なあんにも起こらなければいい。
そんなわけないって、知ってた、けど――。
十九歳、冬の初め。
その部屋は鉄錆のような、血のにおいがしていた。
dos / eiketu no aki .
トビー追悼。
せんちゃんの小説に乗っからせていただきました。多謝多謝!
せせりが三人目に喪うのがトビーです。
DJどうし、どこまで生きれるかな、もうちょっとかな、まだ大丈夫だよね、って
心のどこかでいつも思ってたりするとおもいます。
文章にちらちらと引用される、せせりが覚えていた詩は、
中原中也の「春日狂想」であります。
わりと有名なので言うまでもないかもしれない。
せんちゃんと、それから読んでくれた方にありがとう。
そして例によって長くてすみません。
なにこれ、呪い……?(アレレ?前回よりも長いよ?)
つばめ。