emerge-mono.







 雨音は世界を流すように激しく、けれどもとても静かに響く。
 暗雲の立ち込める空は眩しさの欠片もなく、簡単に見上げることができた。
 吾の胸の前で何かを守るように組まれた小さな手を握り返すことも、かと言って振り払うこともできないままで、吾はただそこに置かれた白い花を見ていた。雨に打たれてだんだんと変色していく美しい花をぼんやりと眺め、そうしてその下の、白い骨を幻視した。


――ミツヒコ。

「……帰ろう、先生」

――ねえミツヒコ、幸せね。

「冷えるよ。先生。風邪、引くよ……」

――あなたの隣は温かいわ。

「先生。ねえ、帰ろう」

――こうして側にいられればいいわね、明日も明後日もその次もその次も、

「……帰らなきゃいけないんだよ……あたしたちは…」

――ずうっと側にいられればいいわね。


 雨音が煩い。遠くから聞こえるクラクションが煩い。自分の心臓の音が煩い。頭の中で鳴り響くこれは一体何だ。こんな雑音は要らない。あの美しい声が聞きたい。ああ聞こえる。ミツヒコ。背中を守ってくれているこの小さな体は、彼女か。――違う。これは。流れる黒い髪。これは、誰だ。
 帰ろう先生――ミツヒコ。
 二つの声が重なって、どちらもよく聞こえなくなる。雨音は無音と紛うくらいに静かで、ただ皮膚に水が落ちてきている、としか思えない。吾は孤独で、無力だった。声が聞きたい。どうしようもなく大切で、どうしようもなく愛しているあの声が聞きたい。――愛してるわ。笑って欲しかった。あの笑顔が好きだった。輝くような金の髪。こんな酷い雨で、彼女はいったいどこに行ったのだろう。側にいたいと言ったのに。側にいるわと、笑ったのに。探しに行こうか。それともここで待とうか。白い花はもう萎れてしまったけれども……――ああそれではこの下の、白い骨は誰の――――

「先生……!」


 その瞬間。

 信じられないほど強い力で細い両腕に引かれ、
 吾は土砂降りの豪雨と妻の眠る墓地、十字架の並ぶ美しい世界に引き戻された。









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