emerge-di.
「……情けない…」
化学準備室にはいつも通り穏やかな陽が射し、照らされた埃が白く光って見える。
理科室に置いてあるものと同じ四つ足の椅子に腰掛けて、一度深く溜息をついた。
あれからどうやって帰ってきたのか、全くと言っていいほど覚えていない。
雨に濡れて変色したブロック塀や大きく広がる水たまりや、どこかで鳴り響くサイレン。そんな断片は驚くほど鮮明に覚えているのだけれども、自分がどんな道を辿り、途中まで一緒だった柚木君とどんな会話をしたのか、そして彼女と別れたのはどこか、まるで思い出せなかった。
結局あのあと丸一日寝込んでしまい、さらに翌日の今日出勤して同僚から聞いた話では、あの雨は相当な豪雨になっていたらしい。そんなことにも気付かないほど茫然としていたのか――と思わず自嘲する。
タイミングが良いのか悪いのか、同僚の教師に頼み込まれて(授業の絶対数がどうしても足りないそうだ)あるクラスの受け持ちの授業が来週と入れ替えになり、一時間ぽっかりと時間があいた。かと言って特に何かすることがあるでもなく、私室と化している化学準備室に篭ってぼんやりしている。
――何とも、情けない男だ。
そうやって苦笑できる余裕が戻ってきただけ、まだましと思うべきか。
――帰らなきゃ、先生。
その言葉とその両腕で、たったそれだけで、吾を世界に引き戻した彼女。その姿は本日未だ見つけられていない。今は五時限目だからきっと既に登校しているだろう、校内を探し回れば見つかるだろうか。
――それにしたって、どんな顔で話せばいいのだ。
「……情けない、男だな」
明日。明日だ。昼前から昇降口で待つなり、下校時に呼び出すなりして――その時に、話せばいい。
そう結論を出してからあまりの意気地のなさに落ち込み、フラスコの並ぶ机の上にずるりと突っ伏した、その時。
コンコン。
「……先生?」
ノックと共に女生徒の声がした。
一瞬脳裏の彼女かと思ったが、声が全く違う。聞いたことはある声だ。誰だったか。
「……草狩先生、いらっしゃいますか」
もう一度名前を呼ばれて、返事をする、ということに思い至る。全く、どうかしている。
「あ、ああ……すまない。今、開け」
バタバタと扉の前まで走っていき、取っ手に指を――
かけようとした瞬間、ガラッ、と些か乱暴に扉が開いた。びくり。指先が硬直する。
「る――」
そこにいたのは彼女ではなかったけれども、彼女を連想させる存在ではあった。
「…………」
俯いてはいるが、表情がわからなくてもその外見は特徴的だ。色素の薄い、とりどりの、あちこち跳ねた金髪。前髪横に留められた蝶の髪飾り。
「……蛇ノ目君」
名前を呼んだ途端、彼女は睨みつけるように此方を見上げてくる。その視線のあまりの険しさに思わずたじろいだ。
彼女のこんな顔は見たことがない。緊張した時の癖なのだろうか、だらりと垂らした腕の先、拳だけを、震えるほどきつく握って。
幼い子のように、いつも無邪気に笑っている――という印象が強かったせいか、今にも噛み付きそうに攻撃本能を剥き出しにしたこの少女と、普段話すあの女生徒がなかなか結びつかない。
「……蛇ノ目君、授業は」
「学校には、今来たところです」
随分さらりとそう言ってのける。遅刻だ、蛇ノ目君。口には出さないが。
昇降口からそのまま来たのだろうか、確かにリュックを背負ったままだ。視線の動きに気付いたか、そんなことはどうでもいいのだ、とでも言うように、睨みつける視線が凄みを増した。ほんの微かに、甘い匂いが漂っている気がする。髪の天辺に、何かが見える――触角のような。
「……その、二つばかり聞いてもいいだろうか。授業に出ないでわざわざ吾の所に来た理由と、何故そんなに怒っているのか――」
「先輩が」
遮るように、大きな声で蛇ノ目君が言った。
先輩が。
どくん、と心臓が大きく鳴った。嫌な予感が矢のように全身を走り抜ける。ぶよぶよとした不快な澱で、肋骨の中が満たされていくような気がする。
「柚木先輩が、一昨日の夜入院しました」
どくん。
「お医者さんは、風邪がこじれたって。普段から体力もないし、栄養も足りてなくて――肺炎を併発してるかもしれないからって」
奇妙なことに、第三者の口から彼女の名前を聞いた、その途端。
あの雨の日の記憶が、熟した鳳仙花のように頭の中で弾ける。思い出す。ああ、思い出した。吾は彼女に肩を支えられながら墓地を出て――あの小さな体にはよっぽどの負担だっただろう――歩いた。額を流れる雨水が、涙と共に顎を滴っていた。変色したブロック塀。大きな水たまり。それから、別れ道。
『……あたし、こっちだから』
何と声をかけていいものか分からず吾はただ頷いただけだったが、
『じゃあ、先生、ちゃんと家に帰りなよ』
彼女は柔らかく笑んで、そのまま角を曲がり、消えた。確かな足取りで。
背中を見送ったあと、吾はそのまま駅へ続く道を直進した。目に流れ込む雨水で、視界がひどく悪かったのを覚えている。明かりの煌煌と点いた住宅街を茫然と進む、その途中、誰かとすれ違った――そうか、それが。
「一昨日、わたし先生とすれ違ってるんです。繁華街――駅のある方から、先輩の家に行こうとして。その途中」
蛇ノ目君の視線は一瞬たりとも吾から外れない。
「そしてその後、倒れてる先輩を見つけました」
どくん。
「救急車を呼んで、病院まで一緒に行って――付き添って、夜になって、病院から帰されて――昨日も病院に行ったけど、会えなかった」
――面会謝絶ということか。
「先生」
吾を見据えたまま、蛇ノ目君が一歩前に進み出る。
「もし違うなら、お願いだから言ってください。わたしは先生のことも好きです。すごく好きです。変な思い込みや誤解で先生を傷つけたくないし、先生に嫌われたくないです。だから、違うなら、言ってください」
蛇ノ目君はそこで初めて吾から視線を外し、すう、と俯いた。
握り締めていた拳がほんの僅か弛緩する。
「先生はあの時、わたしとすれ違う前まで、先輩と一緒にいたんですか?」
甘い匂いが、心なしか濃くなった――気がした。
何と言えばいいのか、また分からなかった。
たくさんの単語とたくさんの映像が頭の中を猛スピードで飛び交っていて、何一つまともに捕まえることができない。柚木先輩が。お医者さんは。入院。雨が。十字架。すれ違ってるんです。ブロック塀。繁華街。あたし、こっちだから。ちゃんと家に帰りなよ。――柔らかく笑んで。倒れてる先輩を見つけました。病院。激しく睨みつけてくる緑玉石。救急車。面会謝絶。白い花。白い骨。黒い土。もし違うなら、お願いだから。帰ろう先生。帰らなきゃいけないんだよあたしたちは。――ミツヒコ。――先生。
がくんと項垂れるように、吾は頷く。ただそれだけを返答として。
どんッ。
肋骨に鈍い痛みが走り、一瞬、無理やりに呼吸が止まった。
「…………蛇ノ目、君」
「……なんで」
さっきまでと同じように、若しかすればさっきまでよりもっと強く握り締めた拳が、吾の胸をどん、と叩いた。何度も、叩いた。
どん。
「なんで先輩を一人にしたんですか」
どん。
「どうして辛そうだって気付かなかったんですか」
どん。
「あんな酷い雨、傘もなかったら普通の人だってまともでいられるわけないじゃないですか」
どん。
「なんで」
どん。
「なんで……」
……どん。
蛇ノ目君はもう視線を合わせようとはしなかった。
既にそれは言葉ではなく、罵声と呼べるほどの勢いでもなく、例えるなら泣き声に似ていたか。
握り締めた拳から力が抜けて形が崩れ、白い指先が霞んで見える。十本の指が、吾の白衣を強く掴む。
「――……なんで」
唇を噛み締めて、何かを我慢するように震えている。怒りと混乱で能力の制御が難しいのだろうかとぼんやり思った。毒も痺れも治すことができるのだから実質吾には彼女の能力は効かないのだが、きっと彼女が今震えながら能力の制御を行っているのは、無駄だから、ではないのだろう。対象が、今の今まであれだけ攻撃的に、許さない、という眼で睨みつけていた吾のことであっても、攻撃等はしたくないのだと、潤んだ緑の眼が叫んでいる。
――わたしは先生のことも好きです。すごく、好きです。
唐突にさっきの台詞を思い出す。
――ねえ先生、聞いて。狂介様がね。
連鎖して、柚木君のいつもの台詞を思い出した。
あんな風に誰かを好きと思うことは、若さにだけ許された特権だったろうか。
……否。
「……すまない」
絞り出した言葉はありふれていて、しかもどうしようもなく情けない響きを持った。
ゆっくりと、蛇ノ目君が顔を上げる。充血した眼。睨まれるか、と思ったが、そこから感情の火は消えていた。
「――先輩が、倒れてたんです」
ぽつり、と呟く。
「……ああ」
「雨がひどくて、全身泥だらけで、道端に。捨ててある空き缶と同じくらい、生きてる感じがしなかった」
「……ああ」
「死んじゃったのかと思った。こんなこと考えるわたしは馬鹿だって思うけど、あの時、本当に、先輩、死んじゃったのかと思った」
「……ああ」
「全身の血が青く変色したみたいで、ざあって逆流して寒くて――怖かったんです。怖いって、それ以外もう何も考えられなかった。動けなかった」
言って、また唇を噛む。薄い皮が破れても。
「……本当はわたしもなんです。先生だけが悪いんじゃないんです。わたしが先輩を見つけて、あんな風に動揺しなかったら――すぐに、ちゃんと救急車を呼んでたら――もしかしたら、先輩、もっと」
「蛇ノ目君、」
「もしかしたらって――そんなのどうしようもないけど、だけどもしかしたらって――本当は先生だけが悪いんじゃないってわかってる、でも先生に押し付けて、――」
「…………」
「……ごめんなさい、」
俯いたその頭を撫でると、ほろほろと涙を溢して彼女は泣いた。