emerge-tri.







 ――たった四文字がこれほど冷たいとは。
 予想も覚悟もしていたつもりだったが、『柚木狂』と書かれた札がぶら下がった病室の扉と、大きな「面会謝絶」の文字は確実に吾を落ち込ませた。
 柚木君は、市内の病院の上階に入院している。

 泣き止んだ蛇ノ目君は、吾に病院の名前と場所を教えてくれた。
 今から行くが一緒に来るかと聞くと暫くかなり悩んでいたようだったが、結局
『わたしはいいです』
 と、笑った。
『会ったら、混乱して動揺して、きっと手札も全部見せてしまうから』
 その言葉の意味は解らないが、シンパシーを感じた気がした。

 今はちょうど見舞い客が多い時間帯らしいが、そもそもこの階には入院患者があまりいないのだろう。廊下の人通りはまばらである。
 病室の扉に寄りかかって、大きく息を吐いた。
 目を閉じる。
 扉一枚挟んだ病室にいるはずの、柚木君が浮かんだ。
 静かに佇んで、ごくたまに柔らかく笑んで――あの姿が完全に消え去るなどと――考えて、恐ろしくなった。
 目を、きつく閉じる。


 ――帰らなきゃいけないんだよ、あたしたちは。

 一面の十字架。黒い、やわらかな土。ここは、そうか、墓地だ。
 マリアンヌ。
 自分の中で何か大きな位置を占めていたものが、もうなくなってしまったという喪失感。
 彼女を殺して、
 ……彼女を、埋めた。
 それは本物の彼女ではない。けれども確かに、彼女だったのだ。

 ――先生。帰ろう。

『それ、奥さんの形してるだけなんでしょ――?』

 目の前に、白い十字架があった。
 土に膝をつき、ぼんやりとそれを見つめる。
 その下で眠る彼女――本物の――は、動かない。

 この土を掘れば。
 掘り出してやれば、また笑ってくれるのか。

 ざくざくと土を引っ掻く。
 爪の間に入り込んだこげ茶色がどんどん濃くなっていく。
 たまに石を掻いては爪に皹が入ったが、そんなことは気にしない。

 ――美しい人よ――

 ガリ、と音がして、爪ではなく肉に直接衝撃が走った。
 ふと気付くと、静かに雨が降っていた。
 指先からは血が流れ、十の爪はどれも無傷ではすまなかったが、まるでモルヒネを打ったように痛みを感じない。

 先生。

 背中から、声がする。

 ……先生。

 この土を掘らなければ。彼女を、掘り出さなければ。

「…………先生!」

ざあっ――――――――

 鼓膜が破れるかというくらい大きな雨音がまず飛び込んでくる。ふらつく三半規管、その先の脳が、指先の痛みを訴えた。雨で流れてよく見えないが、だらだらと血が溢れ出している。これで土を掘って、痛くないはずがないのに。

 ――帰ろう。

 泣き声が、した。

 ――帰らなきゃいけないんだよ、あたしたちは。あっち側に。

 ぎゅう、と背中に、微かな熱が触れた。
 雨で冷え切った体に、それでも灯る命の火だった。
 生きていた。
 どうしようもないほど、自分も柚木君も、生きていた。

 泥と血にまみれた手をだらりと下ろす。

 土の中からのぞいた妻は、
 やはり生きてなどいなかった。


 ――あたしたちは、生きなくちゃいけないんだよ。

 泣き笑いのまま差し出された腕を、掴んだところで。


「……先生?」
「……ん? ……ッうわあ!?」
 呼ばれて目を開くと柚木君がいた。
 腕こそ差し出していないものの、そこには今の今まで見ていた夢と寸分違わない光景が広がっており、思わず声をあげてしまう。
 声をかけた方の柚木君もまさかそんな反応が返ってくるとは思わなかったのだろう、耳を軽く押さえて目を白黒させている。
「……一体何やってんの、こんなとこで……ああ……せせりのやつ、ばらしやがったな……」
 次来たらお仕置きだな、と一人呟く柚木君は、白の入院着を着ているせいかいつもよりもさらに薄く、細く見えた。実際に少しやつれたような気がするが、口調や調子はあまり普段と変わらないようにも思える。
「……あの……柚木君、この病室にいるのではなかったのであるか……」
 背後の(閉まったまま吾の体が邪魔をしているので開かないはずの)扉を指差して聞くと、呆れたように
「……あたしだってトイレくらい行くよ」
 と言った。
 ついと顔を背けたその仕草が酷く可愛らしく、柄にもなくどきりとする。いや、これは違う。これは。
「あ――成る程。それはその……失礼したのである」
「……うん、ていうかね、病室入りたいんだけどな」
「……重ね重ね申し訳ないのである……」
 まさか、留守の病室を守るように扉の前で(しかも、いい大人が)居眠りとは。これでは変質者と思われても仕方がない。しかも夢まで見ていた。
「別にいいけどさあ」
 柚木君はけらけらと笑い、吾が開いた扉をするりとくぐって病室に入った。そして数歩中に進んだところでふと振り返り、訝しげにこちらを見る。
「何センセ、入らないの?」
「いや……具合は、大丈夫なのかと思ってだな」
「あー、平気平気。せせりがいた頃には意識ほとんどなかったんだけど、それでも多少は話せたんだ。それから点滴打って、薬打って、寝て、寝て、寝たから。今は全然大丈夫」
 柚木君はへらりと笑い、入らないの、ともう一度繰り返す。
 安心したと同時に一気に体の力が抜け、できるならば中に入って椅子を借りたいなどと(三度目、いや四度目か)情けないことを考えたのだが、「面会謝絶」の四文字が白いプレートに燦然と輝いているのを忘れたわけでもない。
「……面会は、謝絶されているのである」
「ばれなきゃいいんだって、こんなの」
「そういうわけには――」
 本音と建前で言い澱む吾の考えを見抜いたのか、そうでないのか。
「……あーもー」
 柚木君は腕を組み、すたすたとこちらに戻ってきた。あっ、という間に腕を伸ばせば届くほどの距離まで近付いて、けれども病室からは出ずに――笑う。笑った。
「はい」
 細い腕が、
「掴まって」
 吾に向かって伸ばされていた。

「引いてあげるよ、先生」


――生きなきゃ。
あたしたちは、生きなきゃ。


 彼女の表情や指先の形、声、全身を取り巻く空気は白昼夢の続きかと思うほどそれに酷似していたが、
 ぐいと手を掴む指先は微かに温く、思わず握り返すとさらに強く握ってくる。
 それは夢と違うところだった。
 あの雨の日とも、違うところだった。

 ――帰るんだよ。
 帰るんだよ、先生。

 引き入れられた病室は思ったよりずっと眩しかった。
 射し込んではきらきらと輝いて、朝を思わせるその陽光。
 広がる羽化の――翅のように。









di / * / end.