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「…………ごめんね」
唇からこぼれる掠れた声は結局、謝罪のかたちに結ばれた。考えて考えて考えてそれでも、やっぱりそれしか浮かばなかった。
後ろから盈の視線を感じる。漆黒のその眼にどんな感情が浮かんでいるのか、背を向けているせせりからは解らない。ただ、今日までずっと自分のことを責めなかった彼に向けても、言った。
ごめんね。
眼を細めるような気配。
苦く笑う。
十字架に巻かれた白いリボンの、レースの飾りに視線を落とした。
「一緒に死んであげられなくて、ごめんね」
それが傲慢だということは知っている。けれど、謝った。いくじなしの自分を。
「一緒に死にたかった。そう、思ったよ」
支えてくれた彼に対して、迎えてくれた皆に対して、守りたかったあの人に対して、そして唯一の母親に対して、それはきっとひどい冒涜だ。自分が死ねばよかったとか、生まれていなければよかったとか、その理屈が間違いなことくらい解っている。
それでも考えてしまう。
だから、謝った。
「死にたいって、思った。寛三くんを殺して、あとには灰しか残らなくて。なんにも見えなかった。わたしには大切な家族がいて、その人のためなら何でもできて、その人の傍にいるためだけに、どれだけ苦しくても生き続けてきたのに。――本当にあの時、死にたいと思った」
ああ瞼を閉じるだけで、あなたはこんなに近くにいるのに。
最初に抱き締められた時の温度を、最期に抱きしめた時の温度を、この腕は少しずつ失いかける。
最期の姿。指で覚えた顔のかたち。痛みを感じないから大丈夫だと告げる。その時感じたどうしようもない絶望。冷えていく身体。冷たくなっていくこころ。諦め。甘え。もう痛くないと言ったから、最期までその声を聴くために足元から。我慢。あとで泣けばいいあとで痛がればいいあとで苦しめばいいお母さんが見ているんだから今は。今はわたしは大丈夫。全然大丈夫なんかじゃないのに、癖になった、その我慢。あとで泣けばいいあとで痛がればいいあとで苦しめばいい、寛三くんが見ているんだから今は駄目。
あとで壊れれば――いい。
あとで、追いかければ、いいよ。
「寛三くんの傍に、いきたかった」
指が覚えている、その、愛が。
どうして此処に無いのだろうと。
存在のあるところに行きたい。
抱き締めて貰いたい。ただそれだけ。それだけ、思った。
「子守唄、聞こえた? わたしも良く知らないから、本当はあんなじゃないかもしれないけど。眠ってくれたかな、寛三くん。あの後、盈くんが来てくれたんだよ。盈くんはね、わたしを殺さなかったよ。優しく、してくれたよ。寛三くんを拾い集めて、わたしの手を引いて、走ってくれたよ」
――お前が覚えておけばええんや。あいつのことを、ずっと忘れずに。
自分の鱗粉では自分を殺せない。そんな解りきった事実にまで、落胆して、混乱して、憔悴して、慟哭した。手近に刃物があったなら喉を突いていただろう。そこがこんな風に崖の上なら迷わずに飛び降りていただろう。悲しかった。悲しかった。悲しかった悲しかった悲しかった。もう歩けないと思った。もう、立ち上がることなんて出来ないと思った。
――そしたら、あいつの存在、嘘やないやろ。
けれども血肉を伴う温かな腕は案外簡単に自分を立ち上がらせ、灰を落とし、掻き集めて抱いた。
もう萎えてしまって立てやしないと思った両脚は、冷たい床を踏み締めて立った。
冷たい機械の転がる床。
歩いた。
腕を引かれて。
走った。
涙が出た。
思わぬ優しさに、だけではなくて。自分が生きているということを実感して、なんだか涙が出た。
がらんどうになった心の奥に、それは随分塩辛く滲みた。
――せやから、後追ったり、どっか逃げたりとか、考えんなや。
「生きる理由と死なない理由をもらったの。……今でも本当は、傍にいきたいよ。でも、駄目だよね」
わかってるんだ。
呟いて、せせりは盈へ振り向く。黒い眼はちょうど伏せられていて、屈んでいるせせりと視線が合った。ぎこちない笑みを浮かべてみる。誤魔化しではなくて、本当に、ありがとうの意味を込めて。笑い慣れない人のように、軋む笑み。
本物だからこそ、軋めば痛い。
盈はふい、と視線をそらした。せせりは眉を下げ、困ったように首をかしげる。
ごめんね。もう一度言った。
盈は此方を向かない。
「ありがとう」
「――阿呆」
盈は一歩足を進める。革靴の底が土を蹴る。屈み込んで膝を抱えたまま、せせりはその音を聴いた。崖の上のやさしい風に、白い裾が揺れる。ふくらはぎまで巻きあげたトウシューズのリボン。馬鹿な自分の恰好を想って、せせりは好きな歌を思い出す。
――それはとても晴れた日で未来なんて要らないと想ってた。
思い出す。
晴れた蒼穹。
「そうだね」
「自覚はあるようやな?」
「うん。ごめん」
「ほれ。それや」
「あはは。じゃあ、ありがとう」
「じゃあって何や」
「なんでもないよ」
「――お前な。余計なこと考えるな、言うたやろが俺は。考え過ぎなんじゃ。俺ぁ、お前みたいにぐだぐだせぇへん。あいつが幸せやったなら、そんでいい」
「……うん」
盈はいつだって強い。その燃えるような髪を、せせりは想う。
その言葉に強がりがあっても、なくても、そうして言葉に出来るのなら、それは強さの証明になるだろう。自分はそれすら出来ない。嘘も誤魔化しも下手で、ほころびを繕うことも不器用で、優しさに縋って生きているだけ。
誰かが言った、それは立派な本能だと。
弱いが故の共存の仕方だと。
せせりはそれに納得できない。弱いものは弱い。視点を変えてそれを強さと表現しても、自分が泣き虫なのは変わらないのだ。
――思い出すのは雨の日、夜の倉庫。
――あの人、泣いてたから。
――きっと寂しかったんです。
そうだ。
盈だってあの時、高笑いしながら泣いていた。
寂しい、寂しい、
何処へやればいいのか判らない、こんな気持ちばかりを抱えて。
「最初に、抱き締めてくれたでしょう? 弱いわたしを、守りたいって言ってくれたでしょう? うれしかった。そんな風に言われたこと、なかった」
消えろ、死ね、叫ぶ言葉ばかり聴いて生きてきたから。そしてそれが、全てだったから。
だから嬉しくて、子供みたいに泣き喚いた。
後から行くと笑んだ寛三を、それで伝わった優しい嘘を、せせりはまだ覚えている。しがみついた自分を受け止める大きな身体を、撫でてくれる掌のかたちを。静かで、ゆっくりした、鼓動のようなその声を。
言葉では何も伝えられなかった。
届かない、間に合わない笑顔。――好き。その言葉。
せせりは立ち上がり、ぱん、ぱん、と裾を掃う。
とても喪服には見えない、華奢な白いワンピースが、少し強くなった風に晒されてばたばたと靡いた。
陰気なものは厭だった。それよりも綺麗な白を着たい。もし見えたら、きれいだと言ってくれるだろうか。
「――生きてるよ。心臓、動いてる。まだ上手に笑えないけど。思い出すと、泣きそうになるけど」
血肉を伴うあなたの身体は、もうここにない。
それに付随する意識も、もう随分遠いところにいってしまった。
灰は、ただの灰。
それが悲しくて、つらくて、笑えなくて、泣けなくて、甘えることも投げ出すこともできなくて、愛していて、愛していて、愛していて、
「でも忘れたくないよ。忘れない」
何度も何度も自分の奥を覗き込んでは、その汚さに泣きそうになった。
忘れないから、繰り返し創を抉ることになる。解っているのに、忘れられなかった。
何度も何度も自分の中の記憶を視た。
崩れて、消えて、死んでいく彼を、何度も視た。
それすら愛しい。
泣き疲れたときに、そう思った。
――そして見つけた。
自分の中に、彼はいた。
思い出す度に濃くなる姿。
「足掻いて這いずって必死になって泣き喚いて、痛くても、恰好悪くても、ちゃんと生きるよ」
せせりは両掌で左胸を押さえる。
心臓は静かに脈打っている。
「――忘れない」
思い出すことは辛くって。
傷を抉るから、治らない。
どうしようもなく優しさが滲みる。
思い出すことは、愛しくって。
わたしはわたしを見つめることで、何度でもあなたに逢えるのでしょう。
だから、
だから。
「花言葉を知ってる? もっと沢山、色んなこと教えてあげられればよかったね」
「寛三くん、十月二十四日の誕生花は、ピンクのガーベラなんだよ」
花言葉は、崇高美。
箱に被せていたハンカチが、突然の風に煽られて飛んでいく。
また一歩、盈が前へ進む。十字架の前で二人は並んだ。
盈が差し出した花束を受け取り、抱き締める。
ふわふわと甘い生花の香りがした。
ピンクの花弁が肌をくすぐる度、少し涙が出そうになった。
「綺麗な――花だから」
勢い良く腕を振り上げる。
放物線を描いて花束は飛ぶ。
崖の淵のその向こう。
海へ。
「――風やな」
花束の行方を見つめながら、ぽつりと盈が呟いた。
「うん」
俯くように頷いたせせりを向いて、盈が言う。
「つらいか」
「つらいよ」
視線は、腕の中の箱へ。
彼だった、灰。
「やめるか」
「やめないよ」
「…………」
「やめないよ」
どこか探るような黒眸の視線に、翠の眼をしっかりと合わせた。
にっこり強く笑ったつもりで、情けない泣き笑いになった。
離れたくない遠のきたくない、ずっとそう想っている。
けれどどれだけ悲しんでも朝は来るし、どれだけ憎んでも、夜は来るし。
想いに浸って泣いていられる時間を、この先歩くために失うのだろう?
――そしてそれは、
「さよならじゃあ、ないもの」
飛び立っても、走っても。
「淋しくない」
それは嘘。
「……大丈夫」
それは、半分くらい本当。
「好きだから、」
それは本当に。
「忘れずに、放すの」
難しいけど。
日々が、季節が、窓を叩いて、笑って、って、言うから。
ワンピースの裾が揺れる。
悲しいのはいや、つらいのもいや。だから喪服よりも純白を選んだ。
パフスリーブから伸びる腕は、寛三の身体を抱き締める。
肌に散らばる傷と、痣。
抱き締める。
痕は消えない。
抱き締める。
放すために抱く。
今までで一番大きな風を待って。
飛んで行って、どうか遠くまで。
隣の盈に視線を移す。
赤髪を揺らし、盈は頷く。
風が吹いた。
背を押して、髪を揺らして、手の中の箱すら飛んで行きそうになる。
少しだけふるえる指で、透けるピンクの蓋を。
開いた。
「――ありがとう」
彼の身体は舞い上がり、
わたしの言葉も風に攫われた。
下ろした瞼の裏側に、優しい笑顔が見えた気がした。
抱き締めてくれた腕の温かさを、確かに思い出せた気がした。
そしてもう何もかも忘れない。
――届いたのだろう?
笑ってね。
back / end.
寛ちゃん追悼。
水葬であり風葬であるのです。
もう本当になんというか私は寛ちゃんが好きで
げどじゃのWHITE FANGを読み返すたびにぼろぼろ泣いてしまうのです。
何もかも終わった後すぐのお話だと思っていただけると嬉しい。
研究所を皆が脱出した後、黒金に集合するラストシーンのちょっと前、くらいで。
この葬送が終わったら、きっとあのラストシーンみたいに、ちゃんと笑えるからね。
げどじゃとCocco、それから読んでくれた方にありがとう。
相変わらず長くてすみません。
つばめ。