「――うくん、」

 絞り出した声は掠れていて、どことなく果敢で、どことなく無様な響きを持った。
 風はおだやかに、けれど途切れず、海へ向けて吹いている。
 ――よかった。
 ――これなら後で困らない。
 頭の中で呟く自分を黙らせて、せせりはもう一度彼の名を呼ぶ。


「――寛三くん」


 あの日から。
 あの、最期の日から。

 せせりはずっと、彼に告げる最初の言葉を考えていた。
 それは多分泣き声であってはならないし、けれど心の底から笑える自信もない。
 出ない答を考え続けるうち、いつものように笑えなくなった。今ここに彼がいないのに、あんなに小さくなってしまったのに、自分は生きていて、歩いている。それがひどく悲しかった。思い返す度、涙が出た。
 事情を知っている友人達に、その優しさに、お決まりの、誤魔化しを含んだ、情けない笑顔を浮かべそうになる度、せせりは拳を握り締めて自分を罰した。
 その拳の震えを、できるなら誰にも見せたくなかった。

 わたしさえいなければ。
 あのひとはきっと、まだ、
 いきていたんだ。

 もし自分が、彼に出会わなければ。
 騙されてあの城に入らなければ。
 強くなりたいなんて、守りたいなんて、思いあがったりしなければ。
 ――生まれなければ。
 あの人はまだ、あの優しい、優しい眼をして、笑うことも、生きることもできて。

 ――ああ。

 なぜ彼の身体に冷たい機械が埋められたのか、せせりは詳しいことを知らない。天津も盈も、そのことは教えてくれなかった。知らないのかもしれないし、優しさ故に教えないのかもしれない。
 ただ、彼の死は自分の所為だったのだと、せせりの中には確信があった。蝶で包んで殺したのも、そうしなければならない原因を作ったのも、自分だったのだ。
 他の誰かにそれを話せば、それは違うと叱ってくれるだろう。
 思い込みだ。自分を責めるものじゃない。そんな、優しくて魅力的でかなしい言葉を、頭を撫でながら奏でてくれるだろう。
 だから、誰にも言わなかった。
 優しくされるのも、辛かった。
 皆のことが好きで、優しくされるのは嬉しくて、
 いつもそうやって生きてきたのだけれど、
 本当は――
 自分にそんな資格は――
 ない。

 ――ああ。

 殴られても、叩かれても、血が出ても、痣が残っても、いつだって大丈夫と笑ってきた。
 ばかみたいにただ微笑むことで、悲しみを直視せずに生きてきた。
 弱い自分にとってそれは何だかひどく楽な生き方で、だから、
 笑わないで毎日をやり過すのは、
 本当に、とっておきの罰になった。





『お母さん』
『ただいまお母さん』
『保健室から電話したきり、連絡できなくてごめんなさい』

『夜野って、知ってる? ……大きな会社の、夜野』
『わたし達、昨日まで、そこと闘っていたんだよ』
『夢――じゃ、ないよ』
『でも、そうだね、』
『夢なら良かった』

『お母さん』
『すごく、優しい、人だったの』
『大好き、だったの』

『死んじゃった』

『わたしが――殺した――の』


 殺したの。
 その言葉にだけ反応して、あの人は強くわたしを殴った。
 怯えながら震えながら。
 殺さないでと叫ぶように。
 殴った。

 わけのわからないことをいわないでやめていやなのやめて――。


 痛みはいつも、少し遅れてやって来る。
 身体も心も。

 何もかも終わって、脱殻のように自分の家に戻って、訳もわからないままあの人に向けて吐き出して。
 しまったと思ったのが先か、頬を張られたのが先か、もう覚えていないけれど。
 その、最初の、痛みで。
 わたしの中が少し狂った。
 そんな気がした。


『わたしが』
『わたし――が』

 もう一度、罰のように、
 殺したの、と続ける前に、
 強く壁に打ち付けられて意識が飛んだ。


 それでいい。
 それで。
 もっと酷い目に、遭えば、いいんだ、わたしなんか。





 あなたはもういない。
 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も
 泣き喚く弱さをどうか。

 ――許して。

 ――ゆるさ――ないで。





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