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とんとんと包丁の音がする。
数式の海に埋もれていた僕は、その音でゆっくりと浮上する。
帝国海軍の潜水艦の名は何だっけ、なんて意味のないことを考える。暗闇に蹲っていた脳はそれで少しずつ機能を回復する。伊号――だったか。
とんとん。とん。とんとん。
座卓に真っ白な帳面を広げ乍ら、僕はぼうやりと関係のないことを考えている。
周りの大人が云う程に僕の頭は賢くない。同年代の女の子達より、男の子達より、もしかしたら劣るかも知れない。下らない事を考える頭はあるというのに。たとえどれだけ賢そうに見えても、或いは相当譲歩して実際に賢く在れるだけのキャパシティを保持するのだとしても――賢い用途に使わなければ、そんなものに全く意味などないのだ。
だから、僕の頭は賢くない。
包丁が青葱を刻む一定のリズムに乗せて、自分が馬鹿であるということを誰でもない自分に向けて一心に証明しようとしている人間が、賢い訳もない。
きっと僕は眠っていたのだろう。
座敷に附した縁側から夕方の陽が射して、畳の目の陰影を橙に染めている。最近陽が長くなったから、時刻は五時か、六時だろうか。
中庭の桜は満開を過ぎてもう後は散るだけだ。
途切れない包丁の音。
毛布の様な眠気が静かに四散していく。
台所からは鼻歌が聞こえる。
手伝いの太田さんは鼻歌など歌わない。あれは、面倒見の良い家庭教師が夕餉を作る時だけ聞こえる――識別記号に似たそれだ。
しゅうしゅうと湯気の立つ音。遠くに。台所で。
僕は立ち上がり、台所に足を向けかける。
足を踏み出した――最初の一歩。
それを、ゆっくりと引く。
学校指定のハイソックスの裏が、畳に擦れてずっ、と鳴いた。
腰を下ろして座卓に向かう。開け放した硝子障子の向こうには縁側、中庭、夕陽。真っ白なままの帳面がつやつやと陽を反射する。上質紙。今時藁半紙の帳面もないだろう――あるんだろうか。ああ、また思考が飛ぶ。
鉛筆を握る。人差し指に力が入るのは悪癖だ。直す気は、ないけれど。
午睡の前に出された課題は、まだ到底終わっていなかった。
僕の頭はそう賢くない。
ただ、自分が決して料理を作る彼の背を見たい訳ではない――ことは、知っている。
自分自身との連結や談合は、割と上手く行っている方なのだと思う。
少なくとも僕は自由意志の基に自分を放逐したりはしない。
自分を支配下に置くのではなく、自分は飽く迄も自分であるだけなのだ。指の先まで、僕は僕という存在でしかない。僕の外に、僕は無い。
精神の働きとして分裂し脳内で二つの意見がぶつかり合うことはあるが、それでも決着が着かないことはない。
僕は賢くないが、自分で自分が解らない――等という愚昧だけは成さない。
それ切りの、それしかない、それだけの、だからこその――自尊だ。
※
「先生は、背が高いですね」
吸い物の椀を片手に、恒例となった台詞を彼に向けて投げる。
座卓を挟んで僕の向かい、閉じ切った硝子障子を背にした彼は、慣れた様子でそうねと答えた。詰まらない。前回も前々回もそうだった、予想していた通りの反応ではあるのだが、それでも詰まらない。表情は変えないままに、小皿の沢庵を齧る。
初めて僕がこの台詞を吐いた時の、その瞬間の彼の顔を、僕は一生忘れない。あの一瞬の――泣き出しそうな顔。
背が高い。ただそれだけの事象に彼が一体どれ程のコンプレックスを抱えているのか解らないが、世間話の延長で、小娘に(まあその小娘は当時彼と出会ったばかりで、あまり賢くなく愛想もない小娘なのだが――)直接事実を指摘されたからと云って、普通そんな表情を作るものだろうか。
彼が取り分け弱いのか。
僕の言葉が過剰に強力だったのか。
その日僕の許を訪れるまでに何か他にも彼の意識を抉る様な事があり、そこに僕が追い討ちをかけたからこそのあの表情だったのか――そもそも無意識の成すものだったのか。背が高いと云うだけのことが、そこまで彼にとって重要なのか。
いっそ下らない位に少ない可能性にまで手を伸ばし、脳内の白板に貼り付けては剥がす。
答えは出ない。きっと僕には理解出来ないことだからこそ、想像も出来ないのだ。
彼に直接訊く気はないし、彼も進んで説明を施さない。先ず、彼自身が気付いているかどうかも疑わしい。
ただ、その泣きそうな顔が愛しかったから。
僕は今日も同じ台詞を吐く。意図的に棘を含ませることも、綿のように柔らかくすることもしない。ただ努めて、努めて一番最初のときと同じ条件になるように、それだけに気を遣って、同じ台詞を、同じトーンで、同じ視線で、吐く。条件は五分でなければ面白く等ない、なんて考える。
彼はもうすっかり慣れて、そうねぇ、困っちゃう、と苦笑いする。
僕は一度肯いて、それ以上何も云わない。今日の分は此処まで――だ。落胆を示すこともない。一緒に笑うこともしない。
彼がもう一度あの泣きそうな顔で僕の顔を見詰めるという未来への希望があれば僕はいとも簡単に名役者になれる。
馬鹿だと――思う。
けれどそれは、一から十まできっちりと僕の意思だ。
僕が僕として生きている以上、願望や欲求は可能な限り叶えなければならない。僕は人間として、そして僕として生きているから、そういう風に生きなければならない。水が飲みたい、睡眠が採りたい等の肉体的欲求だけではなく、独りで居たい、何もしたくない等の精神的欲求も、勿論其処に含まれる。
僕は本質的に我侭で、自己中心的なのだ。けれど問題なのは其処ではない。世間一般で自己中心的な人間が忌避されるのは、自らの自己中心的気質を上手に隠し通せないからだ。他人が泣こうと笑おうと如何でもいい、自己の中心は飽く迄も自己であり決して揺らがない――ことを、集団の中で反感を買わない程度に、他人に関心の無いことを表現し乍らも常識や良識に基づいた行動をする事で、上手に隠し通せたなら――
それは忌避されず、責められず、晒されず、嗤われない。
忌避される気質を隠し通すためにしなければならない行動と、自らの気質を解放するべくの欲求は往々にして反発する。二つの境界に線を引き、その上をタイトロープで歩くのが僕の役目だ。選ぶのは、僕だ。
自分の欲求を優先するか、彼の心の安定を優先するか。そういう事態に僕はいつだって直面している。
そしてその度、迷うことなく自分を――選ぶ。
※
これは恋か
或いは愛か
でなくばもっと――
※
器に入った粉吹き芋を箸で縦にぼくりと切る。
彼の作る料理は美味しい。見た目通りに洋食ばかりだが、偶に和献立が混じる。
少し練習したのよ、と彼は照れながら云う。
例えば今この粉吹き芋に箸を突き立て仏箸でも演出して不味いと一言呟いてやったら、この人は泣いてくれるのだろうかと考える。否――泣かなくていい。泣かないで欲しい。ただ、あの、泣きそうな顔を――もう一度見たいだけだ。
僕は正直に美味しいと云う。
彼は嬉しそうに笑った。少し自信がついた、と眼の周りを僅かに染めて。
つられるように嬉しくなって、僕も静かに微笑む。
同時にほんの少し後悔する。
ああやっぱり不味いと云えば良かっただろうか。
「先生は」
「なぁに?」
「先生はどうして料理をするんですか」
「え?」
「先生は家庭教師なのに、お手伝いさんみたいに料理を作って出してくれる。どうして?」
先生は男なのに、学生なのに――他にもいくつか云えることはあるけれど、それは理由になっていないから、云わない。男だから――などと云ってやれば僕の欲求は案外簡単に充たされるような気がするのだけれど――僕に根付く卑怯な公正さはひょんな処で彼を守り、僕の欲求の邪魔をするのだ。理性と本能というには、僕の活動はあまりに理性に塗れているのだが。
「どうしてかしら――ううんと」
彼は真剣に考えているらしい。
「夕方前からお邪魔して、夜遅くまで居るでしょう。いつも太田さんに作って貰うのも申し訳ないし――逸ちゃんは良い子だから、ずっと傍に付いていなくたって良いし……課題を出して逸ちゃんがそれをやっている間あたしは何にもすることがないし――あ、そうだ、一度太田さんが休んだ日があったでしょう。なのに逸ちゃん、一食位抜いても平気だなんて云うんだもの」
「平気です」
「そんな訳ないの。平気でも、だめなのよ。こんな広いお家で独りじゃ、だめよ」
食事の話から論点がすり替わっていないだろうか。勿論口には出さないが。
彼はその日初めてこの家の台所に入った。太田さんがいつも綺麗に整えているその設備にそっと触れて、ささやかな夕餉を作った。僕と彼は二人でそれを食べ、少し勉強をして、彼は自宅へ戻って行った。家に独りきりの僕を心配して泊まって行こうかと云われたが、太田さんだって毎日朝来て夜には帰る。僕にとって夜は一人で過ごすものだったから、大丈夫と云った。
心配そうな彼の顔も、悪くはないと思った。
「それが切欠よ、ね?」
それ以来彼は、家に来る日はいつも僕に食事を作ってくれるようになった。太田さんが居ようと居まいと、まるでそれも家庭教師の仕事に含まれるかのように、じゃあご飯の支度してくるわね、と云って座卓を立つ。お陰で僕の居眠り率は格段に上がった。一人で帳面と向かい合うのは大層退屈なのだ。……これは責任転嫁だけれども。
食事の支度以外にも仕事のある太田さんは、彼を迷惑に思うどころか助かっていると云う。それなりに仲は良いのか、彼女はよく彼のことを褒める。料理が上手だからお嬢さんの夕餉を任せられる、なんて云う。僕が彼の所業に迷惑そうな素振りでも見せれば彼女の態度も全く違っていたのだろうが、彼と過ごす時間が増えることは僕にとっても僥倖なのだ。迷惑な訳がない。
少しずつ少しずつ、彼は僕の日常に染み込んでくる。ガーゼで濾した水溶液のように、透明に、不純物を含まずに、とろりとろりと僕のてっぺんへ。
それは他の誰でもなく、僕が望んだことだ。
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