※
父親に何かをねだるのは初めてだった。お願いがありますと云った僕も不自然な自分に戸惑ったが、父親も多少は驚いていたのだろう。短い返答はいつもよりも微妙に色があった。常ならあの人の声はモノクロなのである。
お父さん、僕は余り頭が良く無いんです。だから――家庭教師が欲しい。
あの人は電話の向こうで(正確にあの人が何処にいたのか記すことはできない――教えて貰ったことがないからだ)逡巡し、それから云った。まだモノクロには戻れない声で。誰を喚ぶかもう決めてあるのか――。その言葉に、僕は爽快感を得る。水面下の意思や要求まで飲み込んだ上で話が通じているというオリジナルな感覚。僕はそこで、あの人と自分の血のつながりを実感する。
ええ。短く答える。誰だ。まるで娘から恋人の名を聞き出すようだなんて思ったのは、僕の中にそれに近い疚しさがあったからだろうか。
――この近くの学園の、ああそうです、カトリックの男子校。一年生です、そこの――。家庭教師としては幼い? そうですか? 僕はそうは思いませんが。僕よりは年上ですし。教えて貰いたいのは数学ですから、人生経験の多少は関係ありませんよ。はい。はい。はい大丈夫です。出来れば、最大限の待遇で。此処に通い易い様、部屋等借りて上げて欲しい。
――名前は?
父が問う。僅かな会話しか交わしていないというのに、モノクロの声に戻っていた。あの人の厳かさと牽引力と、それから娘に対しても十数年継続して謎を纏っていられること――それを僕はそれなりに尊敬しているから、あの人に嘘は吐かない。
勿論その縛りには、「訊かれない限り云わない」という抜け道がある。
当たり前だ。偽証は罪だし沈黙も罪だが、お喋りもまた罪なのだ。
僕がなぜ彼を家庭教師として最大限の待遇で迎えたいなどと云い出したのか。
その理由を、僕は云わない。
訊かれないから――云わない。
名前は――?
――名前は、。
父親は僕の回答を復唱し、手配する、と一言云った。僕は礼を云い、また此方にもいらして下さいと社交辞令を述べる。父親は肯いた、ような気がした。電話の向こうの相手の動作等見える筈も無いのに、何故だかそう思った。
数日後には彼が家にやって来るのだろう。それまでにやって置くこと等もなかったから、僕はただぼうっとして過ごした。
彼を初めて見た時のことを、考えていた。
※
彼はその時全身に傷を負っていた。
そしてその傷は僕の見ている眼の前で、加速度的に増え続けているのだった。額が眼周が鼻筋が頬が、唇端が首筋が鎖骨が胸が、腕が腹が脚が指が髪が掌が服が眼が――止まらない殴打に因って変色し、裂け、血を流して――いた。
僕の主観ではなく客観で表現するのなら、それは極ありがちな光景だったのだろう。喝上げとか因縁とか、そういうものだ。あまり治安のいい方ではないその地域、時刻はそろそろ陽が沈むという時間帯、薄暗い路地裏。殴られている彼は遠目に見ても圧倒的不利で、それからなんだか、綺麗な髪の色をしているようだった。
一瞬、顔が見えた。
表情のない、静かな顔だった。
信号待ちで車道に止まっていた車の中から、僕は凝と彼を注視める。スモークガラス越しに見る暴力の風景。僕はその時判断力を失っていたのかも知れない。信号が青に変わる前にと、稀に見る勢いで運転席に乗り出して車を止めるように云った。叫んだ。
――あの、殴られている人を助けて。
忠実な運転手はすぐに車を路肩に停め、その路地裏へ走った。黒いスーツを着た背中を、僕は車中から眼で追った。
子供が本職に敵う訳もなく、傷だらけの彼はすぐに解放された。何処かが折れているとか、外れているとか、そういう怪我ではないと運転手は云った。僕は――なんだか滑稽なくらい、安心した。
名も知らぬ加害者達と運転手が如何いう風な会話をしたのか解らないが、帰ってきた黒スーツには少し埃が付いていた。僕がそれを払ってやると、運転手は眼を細めて頭を下げた。ありがとうございます、と。僕も礼を云う。――ありがとう。
彼はかなりふらついていたが、何とか自分で立てる様だった。ありがとう、と彼も云った。モルタル壁に擦り付けられたか、取り分け酷い頬の傷を隠すように手で押さえ、ぐしゃぐしゃに顔を歪めていた。指の隙間から血が見えた。人種の差を感じさせる白い膚の血は、何故だか妙に綺麗だった。
派手に思えた金髪は塵芥と血が付着して相当薄汚れていたが、表通りに出て最後の夕陽を浴びた時、やっぱりきらきらと良く光った。僕はそれをずっと見ていた。ずっと、見ていた。
その後、察しの良い(良過ぎる――)運転手が彼を病院に連れて行こうと云い出したから、僕と彼は黒塗りの後部座席にちょんと並んで座ることになった。いつまでも車を停めている訳にも行かないし、傷は深くは無かったが広かったから、車中で手当てをするのも難しい。
その時に、名を聞いた。
礼をすると云って、彼は自ら姓名と――近いうちに入学するという校名を名乗った。名前くらいは僕も知っている、割と有名な男子校だった。
痛むのか相変わらず頬を押さえている彼に、独り暮らしなら怪我をしても親御さんに心配を掛けなくて済みますね――と云ったら、彼は少し考えてからひどく嬉しそうに、そうね、と笑った。
その声に作られた高さを、その口調に外見との差異を――感じて、
僕は彼があそこで殴られていた理由を、何となく理解した。
二つ切りしかない性のうちどちらに嵌るか、自ら決定することは難しいし、特殊な例だ。無性と両性も数えれば四つになるが、どちらも結局男女という二つの性が両方あるか、両方ないかということだ。基準は矢張り、二つの性に任されている。そういうものだと思う。
勇気を出してその二者択一を放棄することも出来る。可能だ。けれどそれは多くの場合――驚かれる。場合によっては忌まれる。淘汰される。
そこで必要な勇気と云うのは二者択一を放棄する勇気ではなく、均されぬ様に耐え続ける勇気なのだろう。
差を淘汰して平坦に均すのが人間の常だ。田も畑も集落も、数え切れぬ程多くの淘汰の繰り返しで作られている。だから、それ自体が間違っている訳ではない。何をどう云おうと、兎に角現状は多数決で決定されてきた。これからも恐らくそうだ。
彼が何故、どんな切欠でそうなったのか僕は知らない。
ただ僕は――、
僕は、
――あのひとをたすけて。
※
彼の名前は朔アリスと云った。
語呂が良いのか悪いのか良く解らない名だと思った。珍しい事は間違いないだろう。仏御前逸美――なんて大仰な名の僕が云うのも何だと思うが。
※
「逸ちゃん?」
「――、」
回想の中心人物によって回想から引き戻されるというのは全く大層妙な気持ちだ。僕は箸ではなく鉛筆を握っている。座卓の食器類は片付けられて、そこには再び帳面と教本が載っている。広げられた真っ白な帳面は、今度は白熱灯の灯りを反射していた。蛍光灯は紫外線を出すのだけれど白熱灯は確か出さないのだ――僕の思考はすぐに勝手な方向へと枝分かれするが、その枝はそれ以上伸びず、すぐに枯れる。
「どうしたの逸ちゃん?」
彼は僕のことをいっちゃん、と呼ぶ。彼が呼ぶまでは周りの誰も僕のことをそう呼ばなかったのに、ある日突然いっちゃん、と呼び始めた。僕はそこで戸惑う程かわいらしい少女でも賢い人間でもないから、彼はそういう人間なんだな――と飲み込むだけだった。彼のことだから大方、学友のことも馴れ馴れしくちゃん付けで呼んでいるのではないかと思う。
どちらにせよ、それは彼のオリジナルだ。
僕はそれを慶ぶ。
「ぼうっとしてたわ。疲れた? 少し休憩する?」
大丈夫ですと僕は答える。
「あのね、お菓子を焼いてきたんだけど――」
「大丈夫です」
再度。
「そう?」
彼の顔は少しだけ悲しそうな色を湛える。彼の鞄の中ではきっと可愛らしく包装された焼き菓子の類が外に出る機会を失ってゆっくりとゆっくりと腐り始めているのだろう。彼自身その想像をしていない筈がない。僕は淡々と鉛筆で数字を書き記す――そう見えるように、表情を作る。
顔を上げる。
悲しそうな彼の顔。
自覚があっても、なくても構わない。
僕にとって愛しいそれを。
僕は悦ぶ。
「……先生」
「なぁに?」
「…………問三は?」
「え? あ、そこはね、ほら――この公式使うのよ」
「……ああ」
「そこに代入して、……そうそう。ね?」
「わかった。有難う」
「うん。逸ちゃんは賢いわね。一回云えば覚えちゃうでしょう?」
覚えられない馬鹿の振りが恥ずかしくてとても出来ないというだけだ。それの何処が賢いのだろう。
解らない解らないと駄々を捏ねて彼に八つ当たりすれば、彼は悲しそうな顔をするのかも知れないのに。
「そんな事ないよ」
「あるわよ!本当に家庭教師あたしでいいのかな、なんて思っちゃうわ」
「――……」
あなたでないとだめなんです先生。
あなたはちっとも其処を解っていない。
あなたは本当に馬鹿です、先生。
あのまま殴られて死んでしまえば良かったのに。
――あのひとを。
――あの人を助けて。
――あの殴られている人を――
――助けて!
ただあの無表情が厭だっただけなのかもしれないと、鉛筆を握りながら僕は考える。
殴られ蹴られ踏み潰され凹凸のある壁に押し当てられて頬の皮膚が削り取れても、ただ永遠と何も映さないその顔が。
まるで達観した馬鹿のようで、見ていると恥ずかしくて転がり回りたくなるような気がして、ひどく厭だっただけなのかもしれない。
それは――同族嫌悪か。
少なくとも運転席に乗り出した時、僕の中に弱き者を救わんとする道義精神があったとは思えない。
僕はそれ程賢い人間ではないのだ。
それは大層都合の良い仮説で、ありとあらゆる不満を綺麗に包み込むように思える。
けれど僕は指の先まで僕なのだ。
僕の全身が、頻りにそれは違うと叫ぶ。
その仮説は間違っていると叫ぶ。
逃げるな――と。
何から逃げているというのだろう。
僕は勿論それも解っている。
自分で自分が解らない等という愚昧だけは――僕は犯さない。犯せない。
※
これは恋か。
或いは愛か。
でなくばもっと、それよりもずっと――。
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