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「最近休む時間がないと思わない?」 些か不満そうな声で、女は足下のガラスにショートブーツの踵をかつんと当てた。 「仕事が増えてきたなら良いと思うけど」 男は短く答える。 女の履く、何か別の素材のようにてらてらと光る黒いエナメルは、珍しいことにブーツの踵部分にもきちんと張られている。 その代わり踵が磨り減ってしまえばさぞ不格好になるのだろう、ブーツ自体の高いヒールといい、編み上げほどに頑丈でない造りといい、ひどく実用性に欠けるなあと男は思う。 とりあえずそのブーツも、今のところは殆ど磨り減っていない。綺麗なものだ。 「蝶子ちゃん、それ新品?」 サイドウィンドーから見える女の脚を、男は運転席でぼうやりと眺めていた。男の、白髪に近い銀髪(逆かもしれない)に、左耳の三連ピアスの赤がよく映えている。 フレームのない眼鏡は手元の文庫本のために今だけ掛けているらしい。肩まである髪は黒い服とで対比、全体的にモノトーンのイメージを生むが、明るい瞳の色とピアスの赤色がそれを適度に崩している。 「もしかして同じ靴何足か持ってたりすんの?ルパン三世みたいに」 からかうように言葉を放ちながら、今まで読んでいた文庫本を閉じ、眼鏡を外して鞄に突っ込んだ。端正な顔を僅かに緩め、座席の背凭れに体重を任せる。 開け放してある助手席側の窓から、驚いたような女の声が入ってきた。同時に、さぁっ、と風が鳴る。 「やぁね、気付いてくれないの?結構前からこれ履いてるわ」 「の割には新しいね。こないだ見た時もそんなんじゃなかった?さっきから蝶子ちゃんがサイドウィンドー叩いてるその踵がさ……ほらぁ、人通りが少ないっても全くいないわけじゃないんだからそんなとこ降りといでよ。不審者っぽいよ」 「だってボンネットに乗るとあなた怒るし。フロントガラスの上で宙返りしたら呆れたって眼をしたし。断言するけれどあたしの宙返りぽっちじゃあんなの割れないわよ、ブーツで踏み付けたって無理よ?あ、でも裸足で思い切り踏み付ければ割れると思うわ、試してみようかな。高いところが好きなのよ」 「……蝶子ちゃんの身体はゼロに二を足したらマイナス二になるわけ?無茶苦茶だなあ。試すなら平和的にスクラップ工場に行こうね、好きなだけブッ壊していいから。あと他所でそういうこと言うと馬鹿扱いされるから気を付けなね……でさ、本題について答えてほしいんだけど」 「……んー……そうねぇ」 数秒沈黙。 「磨り減る必要がないから磨り減らないのよ。 ブーツも、」 「ブーツ以外になんかあるの?」 「――秘密」 路駐のビートルの屋根に乗って、しなやかな脚をゆらゆらと揺らしながら女は笑う。 くっくっ、と喉を鳴らして。 紅の、花柄の着物の裾がちらりと見えて、今日はきっと椿か山茶花の柄なのだろう、と男は思った。 彼女とこの仕事を始めてから、正確には彼女の仕事に男がスカウトされてから、彼女が着物とショートブーツ以外を纏っているのを見たことがない。常に派手な柄という共通点はあれど、詳しくない自分が見ても分かる程度には、毎回違う着物でやってくる。 一週間で毎日違う組み合わせだった時には、あの決して広くはない家にどれだけ着物があるのかと不思議になったものだ。 貸衣装ということもないだろう。服に血が飛んで仕方ない仕事なわけだし。 朽谷は、だからいつも黒い服を着る。 「今日みたいにお仕事の日だってたくさん歩くわけじゃないもの。家まであなたが迎えに来てくれるから」 このビートルちゃんでね、と車体の屋根を軽く叩く音。 「蝶子ちゃんの馬鹿力じゃビートル壊れちゃうよ、」 相手から見えもしないのに、男はひょいと肩を竦めた。失礼ね、と声だけが訪れる。 「最初はさ、かよわい人だと思ったんだけど」 「あたしがスカウトした時?」 「そうそう」 「今だってかよわいわ、あなたに跨って動いても重さ感じないでしょう」 「……あーあーあー」 「うふふ」 「あのね、さらりとそーゆーこと言う人はかよわくなんかないよ?」 男はハンドルに白い額を乗せてぶつぶつと呟いたが、そんな時に限って天井上の女に声が届かない。 笑った気配。 女はいつでも笑っている。 朽谷はそれを見るたび、ニアデスハピネスのようだと思う。 ※ ちょうどこんな道路に、ちょうど今日のように、朽谷は昼間からビートルを路駐してその中で何かを読んでいた。小説だったかもしれないし、政府から配付されたばかりの『再殺のしおり』だったかもしれない。 時刻は夕方だった。 青紫の中に橙、桃色、白、赤紫。藍。藍。藍。ゆっくりと座席に沈んでいく。あれが何の本だったのか、朽谷は思い出せない。 突然コツコツと何か叩く音がして、ふとサイドウィンドーに視線をやる。 『こんにちわ』 そこに、女がいた。 『違法で再殺請負をやっているの』 彼が窓を開けるなり、声を顰めもせず女はそう言った。周囲の人間が数人二人の方を見たけれど、それに気付いているのかいないのか、全く構わずにすらすらと続ける。 『一緒にやらない?』 後から聞いたところによれば、あれはれっきとしたスカウトだったらしい。 怪しい宗教団体の勧誘にしか思えなかったと言うと、じゃああたしが神様ね、と笑顔を見せた。 ステーシーの親兄弟や恋人以外の人間が彼女らを再殺することは重罪だ。 宗教の勧誘ではなかったが犯罪のお誘いではあったわけだ。 『……ライダーマンの右手?』 『ええ。銀髪さん、あなたは何色が好き?あなたが好きな色のチェインソーを買うのよ。やっぱり銀がいいかしら?売っていなかったら、そうね、絵の具で塗りましょうか』 うっとりと。 至極うっとりと、女は、のちの"蝶子ちゃん"はそう言った。とびきり旅立った笑顔を添えて。 彼女の金髪碧眼と古い時代の遊び女のような着物姿は、映画に出てくる気狂いを容易に連想させた。その上言動もおかしい、笑うために細められた眼の焦点が定まっていない。 『おねーさん、いくつ』 周囲の人間は、もう二人に注目していなかった。こんな事態はもうすっかり日常そのものだ。単なる気狂いがいる、というだけ……女の体躯はどう見ても少女のものではないから、おそらくニアデスハピネスではないのだろうが。 どのみち良くあることなので、誰も取り立てて気にかけない。 人間は随分あっけなく狂う。 『野暮なこと聞かないの。秘密』 『他に誰がいんの?そのお仕事』 『あたし一人』 『ふぅん』 じゃあまだルーキーなんだ、一人じゃ仕事できないでしょ、と男は言った。 うふふ、と笑って女は答えなかった。 痩せぎすではないが、細い女だと思った。豊かな胸の上、鎖骨がくっきりと浮き出ていて、それがやたらと眼に残る。 兵器メーカーを中心にステーシー再殺用機器は発展を続けていて、メジャーな電気ノコギリは万人に扱いやすいようかなり軽量化された。 フィアット500のプラモデルと同じ大きさ、同じ値段。 それでもこの細腕に再殺は荷が重いだろう。頭がおかしいなら尚更……まあそれはいいとして――へらっ、と男は笑った。 『いいよ、一緒に再殺しようか』 『そう、じゃあ、そのフスカに乗せてくれる?ライダーマンの右手を買いにいかなくちゃ。色は決まった?』 『何でもいいよ。おねーさんは?』 『あたしはいいの』 『ああそっか、もう持ってるよね』 『ライダーマンの脊椎をね』 『は?』 男が自分の勘違いを知るのは、それから少し後のこと。 国道をハーレーで飛ばしてる全身真っ赤な女の子を見たわ。 その子はニアデスハピネスの真っ最中で、大きくハンドルを切ってきゃはははははは!って笑った途端そこにあったガードレールに激突したの。だけどすぐに起き上がってハーレーを起こしてまたきゃはははははは!って笑ったわ。そして猛スピードで走っていった。何度も何度も同じように転んで同じように起き上がっていたからもうすっかり血まみれなの。その赤。幸せそうに笑っていた。あたしはもうすっかり羨ましくなってしまって、女の子に大きく手を振ったの。女の子は手を振り返したわ。にこにこ笑ってまたハーレーに乗り込むその背中もやっぱり鮮血の色をしていた。 そしてぴしゃん、って弾けたの。 次の瞬間にハーレーは爆発して粉々になった。 ぴしゃん、って、女の子は弾けたの。 ふ。 ふふ。 ふふふ。 ふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふふ。 女はいつも笑っている。 微笑んでいる。 朽谷はそれを見るたび、ニアデスハピネスのようだと思う。 ステーシーになってしまった女を再殺する自分を思い浮かべてみる。 その想像はいつも呆気ない。 ひどく簡単に分割されていく身体。 けれど女はステーシーにはならない。 いつでもそこで笑っている、ビートル=フスカの屋根の上で。 殺す自分を、思い浮かべてみるのだ。 |