※
私はお前と交わりたくなんてないし永劫そんなこと有り得ないと思う、食い違うことすら不可能なくらい私達はばらばらだ、話すことも触れることも本当に本当は無かった筈。
けれど初めにお前に触れたのは誰あろう私の方だった、もうその瞬間から毒されたのかもしれない、もうとっくにお前で濁っているのかもしれない、私の頭だって最初からおかしいのかもしれなかった、あの子を好きになったときからずっと。
好きだよ好きだよ好きだよと繰り返す美しい声のレコード、まだ壊れない、まだ壊れない、壊れて欲しくなんかないんだ、壊れるなよ、消えるなよ、居なくなるなよ、頼むよ、頼むよ、もう二度と失くなって欲しくなんかないんだ、厭な予感ばかりが山積するのもお前の所為か、お前の言葉で狂わされているだけなのか、それならお前が消えたら治るのだろうか、ああそれなら治ることなんて望めやしないじゃないか、先手ばかり打つお前と後手しか選べない私で逃げ道なんか最初からどこにもなかったのに、お前がそうやって贋物ばかり転がしておくから、だから、贋物であると知っていたって、もうそれしか選べないから。
美しいレコード、
好きよ好きよ愛している。
切れ切れの返答は濁った喉から。
好きよ好きよ愛している。
知っている知っているもう聞き飽きたんだ本当に。
美しいレコード。
夏の日に足元に転がっていたお前。死んでいるのだと思った。時代錯誤な着物、紅赤の色無地、所々に銃痕を見つけた。
どうしてお前を助けたのだろう、どうしてお前を拾ったのだろう? 泥と血にまみれたその姿さえ美しく思ったのはなぜだろう、放っておけば数日を待たずにお前は死んでいたのに。そうすれば土に還っていたのだろうに。この広い家に独りきりなら、欠け毀れることは私にもた易かったのに。
好きよ好きよ愛している。
傷だらけの身体は頼りない私の腕でも持ち上げられるほど軽かった。まるで生き物の比重ではない気がした。存在自体が非日常のようなその姿を日常そのものの自室に連れ込んで布団を敷いた。お前の傷に包帯を巻いて、発熱すれば薬を飲ませて、うわ言で告げられた奇妙な名前を疑うことなく飲み込んで、食事を作って名前を教えて日付を教えて常識を教えて、失ったというふたとせの記憶を埋めるように、死体のように痩せた身体にはそのものらしい色を与え。
必死で、
なんだか解らずとにかく必死で、
お前を生かした。お前を、生かした。
好きよ好きよ愛している。
歩けるようになったお前はやっぱり大層美しかったから。
偶に口遊む知らない唄はやっぱり大層耳に好かったから。
好きよ好きよ愛している。
何を失っても誰を失っても結局どこまでも生きていたかった私は。
好きよ好きよ――
だからもう一度、始めたかったんだ。
だからお前に、甘えたんだ。
あの子に似ていない総ての箇所を、
あの子に似ている総ての箇所を、
それぞれ等しく救いとして。
※
美しい声のレコードを聴きながらこれはもう壊れてしまったのだと思いそれが無性に悲しくて腹立たしくて何度も直そうと試みるけれど結局そんなことは出来ないこの不器用さといったらない。レコードはただ心地良い声で好きだ好きだと繰り返すから、ごく偶にこのままでいいとすら思わせる。いつも最後に悪い夢を見せるのに、いつだって優しいのだから処置無しだ。
壊れたいのは私、壊れているのはお前で、何だかうまくやれそうな気がした。
※
「あたしは全部わかっているのよ」
「そんな口先は信じないさ」
見透かされることに怯えながらも。
その熱が冷めることに怯えながらも。
冷淡を向けられることに恐怖しながら。
「ばーん」
人差し指と親指を立て後は握って銃のかたちに。
「ああ撃たれた。死んだ」
いい歳をした大人のくせに深夜の戯れに興じてみたり。
「大丈夫、起きて、ゴム弾だから。でもあたしは坂本龍馬よ」
「噛み合わなすぎて意味不明だ」
そんな毎日を何より希求、
していたのは、お前じゃない。
お前じゃ、ない。解っていた。
いつだって捨てるんだろう簡単に?
飽きた瞬間に捨てるんだろうお前は?
好きにしろ。
強制しない。
できないさ。
されないから。
そんなものだよ。
※
「真でも佯でも狂いなのよ」
「それでもお前は家族だよ」
本当に家族が欲しいのは、お前でも、あの子でも、あの人でもなくて。
――私だから。
傷の治ったお前を追い出すより、何も言わずに食事を作ってやる方が性に合うと思った。
本当に、本当に、本当にそう思ったんだよ。
お前なら信じてくれるだろう?
私は何も語らないけれど、それはお互い様だろう?
本当に、本当に、本当にそう、思ったから。
※
死人の衣はひたすらに白い。
今でもあの子の名前を呼ぶ。
敵わない力。
適わない祈り。
叶わない恋と。
かなわない――再会。
※
「――そこから逃げられないものって、なあんだ」
知っている。
答えたくなかった、それだけだ。
いつまでも後手に回るなんて、厭だから。
「――気狂坂蝶子」
ふざけた名前を口に出すと、ふざけた女はなあに、と笑った。
ああそれでも、上手くやれるよ、私達は。
そうだろう?
「答えがわからないなら――楽園ちゃんの負けだわ」
「――それでいい」
罠だらけ。
「ねえもう一度呼んでみてよ」
「厭だよ気色悪い早く寝ろよ」
(こどもに いいきかせるように いう)
(こどもに いいきかせるように いわれる)
「――そういえば明日は用事があるのよ」
「ふうん。出かけるのか」
「ええ」
「食事は?」
「んん……多分あっちでご馳走になると思うわ」
「一体どこなんだかな。まあ、それなら作らずにおくか?」
「ええ。でも、そんなに遅くはならないわ」
「早く帰ってきた例しがないから信じない」
「今度こそよ」
「毎回聞いてるぞ?」
「そうだった? でも信じてね」
「諦めろ」
「やん」
「帰りの話はいいんだよ、切りがないから。いつ出るんだ?」
「待ち合わせは多分――午后? ああ、お昼ちょうど。……違ったかしら」
「時間は守れよ……」
「待たせるものなのよ」
「起きられるのか?」
「今何時?」
「明け方」
「じゃあ、ここで少しだけ寝るから」
「それなら、起こしてやろうか」
「待ってました」
「使い方が違う」
「おやすみなさい」
「聞けよ。おやすみ」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
「うん、おやすみなさい」
「……寝ろ」
「一緒に寝ない?」
「それで、誰がお前を起こすんだ」
――そこから逃げられないものって、なあんだ。
下らない戯れ、本当は何より楽しんでいる。
下らない会話、本当は誰より楽しんでいる。
存在が罠のその身体を、
必死で生かした二年前。
失った間に何があったかなんて知らないし、お前が何者かなんてもっと知らない。
――そこから逃げられないものって、なあんだ。
だからもう――罠でいいんだ。
私はお前から逃げられない。
お前の仕掛ける言の罠。
誑かされて呑み込まれても。
――友愛感じてくれてるんでしょう。
そうさ。
知らなかったのか?
そうさ。
何もかも口に出さなくてはいけないなんて、まさかお前も思ってやしないだろう?
「楽園ちゃん」
「何だ。いい加減に寝ろって」
「好きよ」
「――……」
「好きよ、好きよ、愛している」
「……聴き覚えがあるな。何の歌だ」
「愛の歌」
「へえ」
「歌ってよ」
「勘弁してくれ」
「嬉しいでしょう?」
「――何が。誰が……」
お前の言葉はいつも軽くてどうしようもなく私に積もる、
愛していると繰り返し謳われて、嬉しくない人間なんてきっとこの世にいないんだ。
「……好きだ、好きだ、愛している」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「……黙るな!」
「…………」
「……寝たのか? ……歌ってやったその瞬間に?!」
「だってさっきまで寝ろって言ってたじゃなあい」
「起きてるんじゃないかお前いい加減にしろよ馬鹿!」
こんな下らない日常でも。
希求するから。渇望するから。待ち望むから。愛してるから。
家族というにはあんまり、歪つだけれども。
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