siki jitsu - 08 

――咎める言葉が床に落ちて
諦めと運命の境目
――恋と呼ぶにはあまりに
掬われない気がして仕方ないんだ




 表から大きく回り込んで、人目につかない勝手戸を潜る。年季の入った木戸はキイキイと軋むような音を立てるが、表の門よりはずっとましだ。
 裏口の戸を開けると、そこは台所に繋がっている。
 何人かは顔に見覚えのある使用人達が、其処此処で慌しく働き回っていた。冷たいような生温いような視線を上手く受け流し、会釈しながら中へ上がる。誰も止めない。一応とはいえ本家の血の入っているせせりを、止めるだけの権限が彼らにはない。定義付けられた、驚くような忠実さ。
 ――それは例えば、彼らの目の前でせせりが祖父に殴られていても、救済は全く望めないということなのだが。

 今日の桃の節句を祝う人々で、広い家は賑わっているらしい。宴会でもやっているのか、うっすらと酒精の香りがする。鱗粉の網を少し広げると、人々の熱気も感じ取れる。
 中庭をコ型に囲い込む廊下を、せせりは両手に靴をぶら提げて歩いていた。
 宴会場になっている広間の方からは、乾杯、乾杯、と老人たちの笑い声が続く。そこには珍しく、いくつか高い声も混ざっているらしい。
 桃の節句は女の節句。常ならば宴会の間は使用人と共に台所を任されてばかりの女達も、今日ばかりはのんびりと宴を味わうことが許される。
 そこでふと生真面目そうな再従姉(はとこ)の顔を思い出して、せせりは少しだけ微笑を零した。恐らく宴席を楽しむような性格はしていない彼女は、今頃愛想笑いに疲れ果てた頃なのではないだろうか。
 決して宴席に呼ばれないせせりには想像することしか出来ないけれど、名前も知らないような遠い親戚なんかより、気心の知れた友人と交わす方が、酒精は何倍も美味しいのではないかと思う。
 初春の陽射しはまだどこか地表からは遠く、けれどぽかぽかと暖かく降りている。

 縁側から中庭へ降り、踏み石に沿ってさくさくと進む。
 広い庭の中心部からやや外れた場所には、葉を茂らせる柚子の樹が植えられていた。手入れはされているようだが、それでもかなり大きな樹だ。毎年実もつけるようだし、かなり昔からここにあるのだろう。せせりの叔母が子供の頃には既に、今と変わらない大きさだったと聞いたことがあった。
 豊かな葉の影に入り込んでしまうと宴の盛り上がりは一層遠のき、辺りはさわさわと葉が擦れ合う音でいっぱいになる。

「何してんの」
 かけられた声に振り向くと、そこには残雪が立っていた。
「残雪くん」
 ひらひらと手を振るせせりとは対照的に、残雪は呆れたような顔でせせりを見る。
「何でわざわざ宴席の日に本家に来るわけ、お前は。じじいたちに見つかったら面倒だろ」
「うふふ。みんなお酒飲んでるから、案外こういう日の方が見つかりにくいんだよ」
 それにみんな酔いが回ってるから、もし見つかっても普段より酷い目には遭わないよ。それは心の中だけで呟いたのだが、何となく伝わってしまったのか、残雪は一層呆れ顔になった。
 唇を尖らせて見下ろすように此方を睨む残雪の仕草に、昔は随分怯えたものだが――
 大学生になってもこういうところは変わらないなぁなんて、一つ年上の再従兄に対して、何だか弟に対するような気持ちを持っているせせりである。
「で、用事は何だ馬鹿女」
「残雪くんにじゃないよ。馬鹿女でもないよ」
「嘘つけ。俺以外にお前と喋る奴なんか居ねーだろ」
「あはは、そうだねぇ……馬鹿女じゃないけどね」
 しつこく訂正を入れてみたが、あまり意味はなさそうだ。頬を膨らませるせせりを見て、残雪はくっ、と短く笑った。
 入らないの、と招いても残雪はゆるく首を振るだけで、柚子の葉陰には入って行かない。自分が降りてきた縁側を背に、陽射しの中で立っている。
 そのお陰で、せせりの姿は今のところ、残雪言うところの"五月蝿いじじいたち"から隠れているのだが――残雪がそれを狙ってやっているのか、ただ歩くのが面倒なだけなのか、せせりには判らない。
 きっと、判らない方がいいのだろう。自分のためにも、きっと残雪のためにも。
 お前なんて嫌いだ、馬鹿女。残雪には、そういう台詞が似合っている。
 
 白いワンピースの裾を風に任せたまま、伸びた髪を手で抑え、せせりはまた静かに微笑んでみせた。
「残雪くん、お医者さんになるんだよね」
「ああ。まぁ、多分な」
 残雪は医学部の現役生だ。この春休みが終われば、二年に進級する。
「変だね、昔は残雪くん、会社でも興して楽に暮らすって言ってたのに」
「……うるさいよ。本題は?」
 どこか気まずそうに先を促す残雪。あまりしつこくすると怒り出すことを知っているので、せせりはそれ以上深追いせず、言われるままに本題を告げる。
「あのね、もしこれから二年間とちょっとの間、わたしが大きな怪我をしたら」

「残雪くんが、手当てしてくれないかな」
 物騒なことを何でもないように笑って言うのは、昔からこいつの得意技だった。
 変わらない、子供っぽい笑顔を眺めながら、残雪はそんなことを思っていた。



「……刺青だぁ?」
 とにかく事情を聴くまではイエスもノーも返さない、と残雪が言い張ったため、せせりは唐突な発言の理由を一からきっちりと説明する羽目になった。
「うん。彫る絵も場所も決めたの。首の後ろのね、ここんとこにね、こう」
「訊いてねぇ興味ねぇどうでもいい」
 ――予想していた通り、残雪の反応は呆れたようなものだった。
「ていうか何で刺青だよ。とうとうヤクザの女になんの?」
「なりません!」
 残雪くんわたしのことすごい不良だと思ってるでしょう、と頬を膨らませるせせりに、不良じゃないのかよ、と残雪が突っ込む。
 せせりの、色素の薄い、何だかふわふわした外見は、確かに不良には見えないのだが――彼女がしてきた事もしている事も、断片的にではあるが残雪は知っている。知っているどころか加担したこともあるし、あまつさえ先導したこともあった。
 結局、素行についてはお互い人のことをどうこう言えた立場ではないのである。
 周囲への誤魔化し方なら残雪の方が巧いし、そもそも失うものがあまりないという点で、せせりの方が思い切りが良い。向こう見ずなだけかもしれないが、ある意味ではそれも武器になる。
 ――このふわふわした女が刺青を彫りたいなんて言うこと自体、外見だけしか知らなければ予想も付かないだろう。
 どこか共犯者めいた感覚を味わいながら、残雪はぼんやりと考える。
「高校卒業したら、わたし、ずっと家にいることにした。出来るだけ長く、お母さんと一緒にいたいし」
「……マザコン」
「しってるー。よくいわれるー」
 せせりはへにゃへにゃと幸せそうに笑う。
「あーあ、働かなくていい奴は楽だな?」
「お蔭様で仕送りはいただいてます。でも残雪くんちも相当お金持ちでしょう?」
「いやいや、本家には敵いませんよ」
 冗談めいた応酬をして、短く、或いは明るく笑い合う。
「……高校の三年間、すごく楽しかったの。辛いこともあったけど、幸せだったの。だから、全部覚えておきたいと思って」
「だから刺青? 短絡的。単細胞」
「単細胞でもいいの。いつ終わっちゃうかわからないから、やれること、今のうちに、全部やっておくの」
「…………」
 まだ二十歳にも届かない少女が人生の残り時間を気にする様子は、年上の残雪の眼には奇異に映る。
 何もかもが始まるのは、まだこれからだ。少なくとも残雪の人生は、そうだ。せせりの人生は――違う。
 その理由を知っているから、残雪は何も言わないでいる。ただ、揶揄するだけに留めて。
「――ババ臭い」
「まだ若いです!」
 本当に。
 まだ、若いだろ。
 口には、出さないけれども。  

「……成程。つまりこういうことか。未成年にも彫ってくれそうな店は見つかった。が、彫った場合その後成人するまでは正規の医者に行けなくなる。それはなぜか? 刺青が見つかるとヤバイから」
「あたり! 一応髪や包帯で隠すし、腕の怪我とかなら問題ないと思うんだけど、どこ怪我するかわかんないし」
「――断るって言ったら」
「えっ」
 途端困ったように眉を下げるせせりを、残雪は眼を細めて見下ろした。
「えー……えっと……うーん……どうしよう?」
「首を傾げるな馬鹿女」
「うう……」
「あと二年だろ? 成人するまで待てよ」
 その台詞がせせりにとってどれだけ残酷なものか、解っているからこそ口に出してみたくなる。案の定、俯いてしまったその表情は悲しそうで、困ったように眉を下げている。
 せせりの人生は残雪とは違う。もう、何もかもがこれから終わっていくのだ。頂を過ぎてあとは下るだけ。その坂の長さも、見えない。ひょっとしたら想像しているより、ずっとずっと短いのかもしれない。
 一体どこまで歩いていられるのか。
 明日かもしれない。今かもしれない。確かな保証は一つもないし、幾ら予想しても限がない。
「……ん……」
 眼に見えてしょげた様子で、せせりは柚子の樹に寄り掛かった。
 その、揺れるワンピースの裾を見ながら、残雪はぼんやりとその場に立っている。

 せせりに対して、残雪は昔からこんなことばかりしてきた。しょげたり泣いたり怒ったりする顔が見たくて挑発して、虐めて、けれども実際に悲しそうな様子を見たら何故か後悔して、腹が立つ。
「……陰気臭い顔すんな。馬鹿」
 胸が苛々とささくれ立つ。
 随分長い間、それはせせりに対しての苛立ちだと思っていた。
 もしかしたら自分への苛立ちなのかも知れないと最近思う。
 ――それ以上考えると、あまり愉快ではない何かの結論に達してしまいそうだったので、残雪は意識して考えるのをやめる。

「そもそも、自分で手当てできないようなでかい怪我をしなきゃいいだろ」
「最近はあんまり喧嘩しないようにしてるよ?」
 あんまりじゃなくて全部断てよ、と思うがきっと無駄なので言わない。その代わり睨む。せせりはさっと目を逸らす。
「それよりも、もっと、あるだろ」
「何のことかな? わかんないや」
 さり気なく示したくらいでは、あっさりと受け流される。意外に図々しいというか、鉄面皮というか、処世に長けるというか。ぱっと見ただけでは解らないが、せせりにはそういうところがある。
「マザコン」
「……よく言われるー」
 笑顔を浮かべるせせりに、残雪は最大級の呆れ顔を返した。残雪自身は自覚していなかったが、呆れに苛立ちが混ざって相当怖い表情になり、せせりが思わず後ずさって、背後の柚子の木にがくん、と当たった。
 引き攣ったようなその頬に、真新しい白いガーゼが――。
 不恰好な貼り方で。

「――――――」

 葉陰。鳥の声。陽射し。遠い宴席。
 残雪が小さく漏らした一言は、せせりの耳に届かなかった。



「……言っとくけど、この間みたいにガラスに激突なんてしたら俺にも手当て出来ないからな。口堅い医者に連絡くらいはしてやるけど、どうなるかは知らないぜ」
「うん。ありがと、気をつける。もう入院いやだし。勿体ないよね、入院中はお母さんに逢えないんだよ」
「……馬鹿女に良いこと教えてやろうか」
「え? なに?」
「普通の親は、子供が入院してたら見舞いに来るんだ」
 言い負かされたせせりがうぅ、と唸る。
 ここぞとばかり思い切り笑う残雪に恨みがましい視線を向けるも、ごくあっさりと無視された。

 二人は見つからないように庭を抜け、今は家の外を歩いている。
 土曜の昼下がり、大きな家ばかりが並ぶこの集落は、道を歩いてもとにかく静かだ。
 家々の間を抜ける道は、車で通るには狭すぎる。偶に自転車が通っていく位で、人影もない。
 蛇ノ目の本家から一番近い駅に向かう道を進みながら、二人は他愛のない話を続けていた。せせりは家に帰るため。残雪は――せせりを送っているのか、それとも宴席に戻るのが面倒臭いのか。残雪本人は、この辺りだと駅前にしかないコンビニに行くためだと言い張っているが。
 
「お前が気をつけるって言って、怪我を避けたり身を守ったりした例がないからな」
「んー……」
「少しくらい抵抗しろよ」
「……あ、何かそれ前にも聞いた。中学生のとき、はじめて残雪くんが家に来て何かわかんないけど押し倒」
「うるさい黙れ」
「ごめん」
 二人の力関係はわかりやすい。

 どこかの家の軒先で、ぴいぴいと金糸雀が鳴いている。
 立ち止まって頻りにそれを聴きたがるせせりを、残雪も最初は引き摺って連れて行こうかとも思ったが、何となく手を握ることが躊躇われて、やめた。
 暫くの間行くぞとかもうちょっととか応酬が続き、結局残雪が根負けする。
 素直に諦めるのは癪だと、せせりの頭を一発はたく。
 ばしんと小気味良い音がした。
 頭を抱えるせせりを無視して、残雪は知らない家の木塀に寄り掛かり、狭い空を仰ぐ。

 ららら、らら、ら、ぴい。
 金糸雀に合わせているのか、横顔は小さく旋律を口ずさんでいる。
 たまぁに、くすくす笑う。考えるように視線が浮く。遠い、見えもしない金糸雀の声を、一生懸命聞き取ろうと必死になっている。
「残雪くん、ねぇねぇ、かわいいねぇ」
「鳥の姿は見えてないだろ。CD流れてるだけかも知れないぜ」
「ゆ、夢がないなぁ……!」 
 ころころ変わる表情が、またへらへらと笑顔になった。

 せせりが中学生になった年の晩春、せせりと残雪は初めて会った。
 その時のせせりは、絶対にこんな顔はしなかった。
 残雪やその姉に怯え、決して他人を威圧する性質ではない二人の母親にも怯え、一族の中では彼女を悪し様に言わない筈の(その代わり守りもしないが――)夏虫叔母にも怯え、本家に放り込まれた私立一貫校の重い制服に、その身体は逆に着られていた。
 背が小さくてやたら痩せていて喋るのが下手ですぐに謝って。
 重たい前髪で眼を隠そうとする、あの仕草が嫌いだった。無駄だからだ。緑の眼は、どれだけ隠してもすぐ揺れて、せせりの心中を雄弁に語った。
 誰彼に怯える眼。助けを求めるような、けれど近付くことを赦さない眼。
 面白くなかった。
 嫌いだった。
 けれど残雪のその感情は、残雪の姉がせせりを嫌うのとは、少し違うようにも思えた。



 気が済んだらしいせせりに行こう、と声を掛けられ、主導権を握られているようで何だかやっぱり癪だったので、残雪はもう一度金髪をはたいた。
 理不尽だ何だと拙い言葉で訴えるのを無視して歩き出すと、せせりは慌てたような様子で、置いて行かれないようにと小走りに追いかけてくる。
 眼を隠していた前髪は、今は蝶のピンですっきりと留められていた。
 緑の眼は、もう残雪を見ても怯えない。
「お前さぁ」
「なあに」
「俺のこと好きなわけ」
「え? すきだよ?」
「……馬鹿女」
「なんで?!」
 残雪は呆れ顔で、それ以上は何も言わないでいる。

 重たい前髪。隠そうとして、隠れない眼。
 何もしていないのにそんなに怯えるなら、いっそ、もっと怯えさせてやろうと思った。
 そんなに嫌いなら、もっともっと嫌いになればいいと思った。
 ――だから。

「……普通の女は、自分を押し倒した男に好きだなんて言わない」
「じゃあ残雪くんは普通じゃない女が好きなんだ。変な趣味」
「はぁ?!」
「あ、痛いです痛いです、ごめんなさいごめんなさい髪引っ張らないでぇえ!」

 ――残雪は、偶に、わからなくなる。
 中学生のせせりは、自分を見て酷く怯えていた。
 それならいっそ、その中身のない恐怖に、中身を与えてやろうと思った。
 蛇ノ目の人間であるとか、正しく人間であるとか、純粋な黒い髪と黒い眼だとか、そんな些細な、残雪自身には何の関係もない、そして残雪以外にも誰にでも当て嵌るようなことで理不尽に怯えられるのは、喩えようもなく不快だった。
 だから残雪はせせりを穢した。
 怯えること以外何も知らないような幼い身体に、それ以外のことを沢山、沢山教え込んだ。
 怯えられるならそれでいい。嫌われるならそれでいい。
 それで自分は、特別で最低な、自分だけの罪を得たことになる。そう、思った。
 姉とも親とも親戚とも違う、自分だけの嫌われる理由。
 それだけやった上で嫌われるなら、残雪だって、理不尽だなんて思わない。
 ――けれども。

「残雪くん」
「何」
「今日は、ありがとうね」
「何が」
「わざわざ中庭まで来てくれたし、ややこしいお願いも引き受けてくれたし、帰り道も一人で帰らなくて済んでるし」
「酔っ払いの相手がうざくて馬鹿女説得するのはもっとうざくて、暇だから雑誌でも立ち読みしに行くだけだ」
「そう? でも結果的にわたしは助かったから、やっぱりありがとうだね」
 せせりはふわふわと笑ってそう言う。

 ――残雪は、偶に、わからなくなる。自分が何のためにせせりを穢したのか、それに、意味があったのかどうかが。

 中学を卒業する間際、せせりは祖父と争って本家を出た。人伝にその話を聞いた時は、あの鈍臭い女がまさかと暫くは信じられなかったが、どうやら本当のようだった。争った理由はやはり母親絡みだと聞いたが、本人から直接聞き出した訳ではないのではっきりとは解らない。
 せせりは中等部からエスカレーター式に進める筈だった私立校を直前に止め、母親と二人暮らしを始めた家にほど近い、公立の高校に入学した。
 その頃から、せせりは少しずつ変わっていった。
 残雪とは偶にしか会わなかったが、会う度に表情が豊かになっているのが解った。
 初めて前髪をピンで留めているのを見た時には、内心相当驚いたものだ。
 露になった眼に、かつての残雪への怯えはなかった。
 会う度に残雪はせせりを抱いたけれど、その眼はもう変わらなかった。再び重い前髪で隠れることも、怯えに塗り潰されることも、なかった。
 残雪くん、と呼びかける声のやわらかさ。

「…………」

 もう、決してあの頃のように怯えられてはいないのに、せせりに対して相変わらず苛々するのは何故だろう。
 どうしてそんなに簡単に他人を赦せてしまうのかと、謂れのない苛立ちをぶつけたくなってしまう。
 その葛藤と、内面に残る罪の意識、呵責。それこそが犯した罪の代償だと、残雪自身はまだ理解していない。
  
 風がなく、雲は一向に流れて行かず、陽射しはやや傾いたがまだ明るい。
 あったかいねぇ、とせせりは歩きながら背伸びをした。
 ワンピースの袖から伸びる腕には、消えない痣が散っている。

 ――せせりを変えた高校の同級生。
 ――せせりが盲信する母親。
 残雪は、そのどれにもなれない。
 誰かの唯一になれるほど、凄い人間じゃ、ない。解っている。
 
 だから残雪は。
 偶に、自分のしたことの意味が、よくわからなくなる。
 
 理不尽に嫌われるなら世界中で一番。
 理不尽に怯えられるなら世界中で一番。
 幼い自分はただ、少女の唯一になりたいだけだったのだ。
 けれどそんな必死な足掻きも、少女自身によって全て赦されてしまって――唯一性を失って――
 後に残ったのは、鈍い自己嫌悪だけだった。


「――じゃあね、残雪くん!」
「もう来んな」
「あはは、また来るよー! 刺青、完成した頃に、見せに来るからねー!」
「それなら俺んちに直接来い! 馬鹿!」
「ばかじゃないよー!」

 古いタイプの車両なのをいいことに、せせりは電車の窓を開け、そこから半身を乗り出している。
 落ちてしまえ、と少しだけ思った。人がそこから落ちられる程、大きな窓ではないのだが。ここは支線の末端、しかも時刻は夕暮れで、この時間から上り列車に乗る客は殆どいない。下り列車でこの駅へ戻って来る客も、大している訳ではないけれど。
 がらがらの電車の中、せせりは大きく手を振って、珍しく声を張り上げている。楽しそうに。子供のように。
 そんなに叫ばなくたって聞こえるのに。
 駅の中ではなく、外。線路を囲む鉄条網の外側に立ち、残雪は電車が滑り出すのを眺める。
 刺青、完成したら、見せに来るから。
 ――少なくともこれで、再びせせりの顔を見るまでに数週間か数ヶ月かの時間が出来た。視界から消えていく電車を眺めながら、何だか虐め足りないな、と思う。
 そしてその反面、安心している自分にも気付くのだ。
 暫く――会わなくていい理由が出来た、と。
 堪えられず会えないかと誘うのはいつも自分の方だというのに、残雪は、せせりと会うたびに何ともいえない気持ちになる。
 
 せせりに会うと、残雪は色々と考えるからだ。考えなくていいことまで、考えるからだ。
 残り時間のこと。せせりの母親のこと。家のこと。本家とか、分家とか。血筋とか。異端とか。笑った顔――その影とか。今日などは突然妙な頼み事までされて、しかも厭々とはいえ引き受けてしまっているのだから世話はない。いつもならあのままキスをして、セックスをして、何が何だか解らなくなるまで蕩けて、それから別れる。だから別れた後にまで、ぐずぐずと何か考えたりはしないのだが――今日は、それがなかった。
 キスもしないで、ただ一緒に歩いただけ。

 ――本当は、あいつなんかに会いたくない。
 余計なことは考えず、淡々と生きて行く方が楽に決まっている。
 元々残雪は必要以上に誰かに深入りする性質ではない。姉のことも、親戚のことも、家のことも。次期分家頭という立場すら、本当は自分に関係ないと思っている。
 せせりの抱えている諸々の事情だって、自分には関係ない――筈なのだ。
 会いたくなるのは、だから、溜まった性欲の処理の為だ。それ以上も以下もない。残雪の思うすべての始まりからずっと、残雪とせせりを繋ぐものは、いつだってそれしかなかった。
 それは残雪が選んだことだ。それでも偶に、わからなくなる。自分がしたことに意味があったのか。
 本当に、それが正しかったのかどうか。
 
 ――今日に限ってこんなに苛付くのはきっと、浮かんだ下らない考えを、セックスで散らしていないからだ。
  
「次会ったら、覚えてろ」

 呟いた言葉は少女まで届かず、残雪の周りを漂って消えた。
 夕焼けの橙色が、残雪の影を長く伸ばしていた。



 

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