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お父さん僕欲しいものがあります。
――あのひとが欲しい。
殴られても表情を示さなかったあのひとが、つよく感情を表す処が見たい。凄く、見たい。
そして出来るならその顔は、泣き顔であればいいと思う。
――お父さん僕は少しおかしいのでしょうか。
――お父さん僕あなたにこんなこと言いません。
――だからこれは――脳内の――妄想。
夢を見るように或いは寝惚けている時のように蓄積された記憶が切り貼りされて、実際には有り得ない映像を恰も真実であるかのように形作るその、疎ましい脳機能。
「あの服はまだ有りますか」
「え?」
「僕と先生が初めて会った時、先生が着ていたあの服」
「ああ、あれ? そうねぇ、まだ捨ててなかったと思うけど――どうするのあんなの?」
「貰えますか?」
「良いけど。……あ、雑巾にするの? 確かに便利そうだしね、あの生地。編んであるから」
「……ええ」
「洗濯はしたんだけど血のあとが落ちなかったのよ、平気?」
だからこそ欲しいのだと云ったら彼は何と答えるのだろうか。
怖ろしい気持ち悪いと僕の許から離れるか?
「じゃあ明日――はあたしここに来ないのよね。次は明後日? えっと、今日が火曜だから……明々後日か。持ってくるわ」
「……明日」
「え?」
子供染みたと云うには余りに打算に満ちた理性的な我侭を僕はつらつらと唇から滑らせる。
「明日が良い――」
無いものをねだる子供は無知故に可愛らしいが有るものをより多く求める人間は虚偽と貪欲の塊でしかない。
「明日、持って来て、先生」
彼は――さあ、どんな顔をする?
賢くない僕はそんな事ばかり考える。
打算に気付き、僕の異常な欲求にも気付いたなら、彼はどうする。
僕を罵って去るだろうか。
――その時彼が心からそう思っているのなら
お前なんて知らないと――云うだろうか。
――それはきっと凄く素敵な表情なのだろう
僕はそれでやっと最初の目的を果たしたことになる。
――それできっと、充たされる。
それでも。
僕は一から十まで僕だから。
本当は解っている。
彼は。
それでも彼は。
「うん、いいわよ、じゃあ明日学校の帰りに持ってくるわね。制服だけど見間違えないでね?」
笑って、
逸ちゃんが我侭云うのは珍しくて可愛いなぁ――と、
僕の、頭を、そっと、撫でた。
「……違う」
「え?」
そういうんじゃ――ないのに。
「逸ちゃん?」
「――……ううん。何でもないです。じゃあ、明日。我侭云ってすみません」
「あはは、いいのよー。色々お世話になってるし」
「……はあ」
淡々と鉛筆を動かし数字を書き連ね乍ら、枝分かれしそうになる散漫な思考を砂の一粒まで掻き集め、同時にさらさらと零し続ける。
僕はぼうやりと彼に嫌われる方法なぞを考えている。
嫌われたい訳ではないのに。
本末転倒だ。
今此処で座卓をひっくり返すとか、絶対に無理なことが浮かぶ。
頚を振って打ち消す。
短く刈った髪が微かに揺れる。
浮かばない。
僕の提案は僕によって却下される。
曰く、彼を殴って追い出す。
曰く、彼に性的暴行の濡れ衣を着せる。
曰く、彼に暇を出す。
実行すれば確かに彼を泣かせることも怒らせることも出来るだろう。
けれど僕は即座にそれを却下する。
僕は――子供なのか。
好きな者を苛めたいだけなのだろうか。
決して彼のことを憎んでいる訳ではないから余り酷過ぎる手段は遣えない、
それだけなのか――?
否。
違う、そんなのは。
かと云って、自分がサディズムに傾倒する人間だとも思えない。
それは、もっと違うような気がする。
――あのひとを。
――あの人を助けて
ああ。
そうか、なんて今更気付いた振りをしてモノローグを語ってみる。
遊びだ。
僕は一から十まで遍く凡て、僕だ。
最初から知っていた。
最初から解っていた。
ただ、見えていなかっただけだ。
やはり子供なのだろう。
同族嫌悪の材料には充分だ。
心から彼に、幸せであって欲しいと思う。
彼の幸福の青写真にパーツとしての僕が存在しようと存在しまいと、そんなことはどうでもいい。酷く、どうでもいい。
僕は僕に出来得る限りの嘘や言葉を遣って環境を動かし、彼の為に何かをして上げたい。暴力に対して無抵抗を貫くその理由等、知りたい訳でも知りたくない訳でもない。たとえそれが主義でも、逃げでも、誓いでも、構わないし関係もない。
そうして傷を負う彼の痛みを、背負って上げたいと思う訳でもない。
自己中心主義の僕は、自分が傷付くことを許せない。
その代わり僕は――報復する。
誰かが彼を殴る。彼は馬鹿だからもう一方の頬もそのまま殴られる。
僕はその誰かを殴る。どれだけ抵抗しようともう一方の頬も殴る。最初の頬をもう一度殴る。もう一方も、再び殴る。
途中で誰かが僕をも殴るなら、同じ数だけ更に殴る。
彼の痛みだけは二倍にして報復するのだ。
それが――献身出来ない僕からの、
供物だ。
まるで赦しを乞う様に。
僕はそうすることによって彼の傍に居続けるのだ。
彼が笑う時に、泣く時に、その鮮やかな表情を見たい――それだけの為に。
たったそれだけの自分の欲求を充たす為に。
忌避される気質を隠し通すためにしなければならない行動と、自らの気質を解放するべくの欲求は往々にして反発する。二つの境界に線を引き、その上をタイトロープで歩くのが僕の役目だ。
選ぶのは、僕だ。
自分の欲求を優先するか、彼の心の安定を優先するか。そういう事態に僕はいつだって直面している。
そしてその度、迷うことなく自分を――選ぶ。
彼に忌避されず、責められず、晒されず、嗤われない様に、
隠し通しながら、
決して身等引かない、
自分の欲求を充たすことを、選ぶ。
詰まりどちらも欲しいのだろう僕は。
「…………っ」
突然座卓に突っ伏した教え子に二つ年上の彼は大層狼狽し、周章し、宥めたり賺したり頭を撫でたり要らないと云うのに焼き菓子を出したりそれはもう大変な騒ぎだった。局地的に、彼だけが。
どうしたの、泣かないで、何かあったの、あたし何かしたかな、ごめんね、ごめんね、逸ちゃん、どうしたの……
「……」
「逸ちゃん……、ねぇ、逸ちゃん……?」
「…………」
当然だが、彼の勘違いだ。
唐突に訪れた余りの恥ずかしさにとても前を見ていられなかっただけで最初から涙など流していなかった僕は、
泣かないでと云われて逆に、出所の解らない笑いがこみ上げるのを感じていた。
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