siki jitsu - 03 

――泣かないで、泣かないで、どうか。
それはあの子だったのか、それともわたしだったのか?
――脆くて白かった足首に、指の形の痣のあと。




「――私はねえ、この彬が哀れでなりませんよ。本家に生まれていれば、きっと正当な跡継ぎになれたでしょうに」

 灰色の髪をきっちりと結い上げた女性が、笑う赤子をあやしながら呟いている。
 その横には黒髪を品良く撫で付け、ストライプのスーツを着た壮年の男が座っている。
 上座に居る眉根に皺を寄せた男は、先刻から一言も話さない。
 女性の視線は赤子ではなく、上座の男に結ばれていた。

「彬だけじゃない、私の所の新菊も、残雪も。可哀想な子達。欲目を引いてみたって、それに相応しいだけの才はある子たちなんですから」
「…………」

 雄弁な女性に対して、上座の男は動かない。
 身に着けている着物の袖すら、ぴくりとも揺れない。
 沈黙と姦しさの間を破り、スーツの男が口を開いた。

「……かつて私達が分家に入ったのは、戦時中というどうしようもない事情の上だった。例外は二度とないことは分かっている」
「だけど冬嗣。お前、そんな事を言うけれど」
「誤解の無い様に言っておくが、本家がどんな状態であろうと、そして彬にどんな才があろうと――分家の長たる私には、彬を本家になどと提言する資格はない。異端でも本家の子が居る以上、分家の者を差し出す訳には行かない――そんな気も、ない。夏一姉さんがどうかは知らないが」
「冬嗣!」
「――だが」
「…………」
「分家は、本家を守り立てることだけに専念する。表に出ることはない。出る必要がないからだ。本家が分家を導くからだ。本家が、分家を上回るだけの才を擁しているからだ」
「……そうだ。私達の代も、その前も、その前も、家が興った時から、恐らくずっとそうだった」
「壱冬――」
「……二人が言いたいことはこうだろう。――今の本家には、本来居てはならない者が居る」

 今日は風が少ない。
 裏庭と縁側に面した障子は、広く開け放たれている。
 添水がひとつ、大きく鳴いた。

「分かっているではないですか、壱冬――」

 女性の老いた目尻に、生来の気の強さを窺わせるような、張りのある表情が浮かんだ。
 やがてその眼が細められ、憎悪に似たものに染まる。
 腕には赤子を抱いたまま。
 愛らしく笑う赤子に、視線の一つも落とさないまま。

「昨日、門の辺りをうろついていた子供。あれでしょう? こそこそと隠れて此方を窺っていた。冬嗣も見ましたね。本当に汚らわしい。見るたびに成長している――子供というのは、あんなに忌まわしいものだったかと思いますよ」
「あれで隠れているつもりだったのか? 物陰でこそこそと。やはり異端等にろくな者は生まれないのだな」
「……春歌さまもお可哀想に」
「ああ、本当に」
「まさかあんなことがあるなんて――誰も想像できなかったでしょう」
「勿論だ。あんな――異端を産むなど誰にも」
「……春歌の話はもういい」

 静かな、けれど有無を言わせない口調で、上座の男が話を切る。

「……どのみち異端になど家は継げぬ。家の名が穢れるだけだ。それを孕んだ春歌にも、継がせるわけには行かない」
「……然様。例外はもうない。私達で最後だ」
「ああ、彬が可哀想。残雪も、新菊も可哀想。本家に生まれていれば今頃は」
「あんな子供、どこにでも放り捨ててしまえば良いのではないか」
「馬鹿を言うな。相変わらずか、冬嗣。いくら異端でも、ヒトの形をしたものをそう簡単には捨てられぬ」
「……本家には牢があったでしょう」
「勿論考えた。一生牢に入れて置こうとも思った――がな。それをすると春歌が暴れるのだ。あの子の姿が見えないと言って、手が付けられなくなる。あの子を連れて行きさえすれば落ち着く。あの子を、何発か張り飛ばさせればな」
「ああ――」

 壮年の男が哀れむような声を上げた。

「――春歌さまは、もうすっかり病んでしまわれたのか?」
「お医者様は? 何と仰っているのです」
「――時間が解決するしかないと。精神的な傷が深すぎる、完治することは恐らくないだろう、と――」
「ああ――」

 女性も、そして上座の男すら、壮年の男のそれに続いた。
 それはただ、壊れてしまった彼女への憐憫でしかない。
 殴られる子供を哀れむ人間は、一人も居ない。

「これで、本家は夏虫さまが負うことになりましたか」
「春歌に比べれば、才は無いがな。いずれ然るべき相手と婚姻させるよりあるまいな」
「柚木の御家とは縁談があったのではなかったか。跡継ぎとなった以上、夏虫さまを嫁がせるわけには行かない。かといって春歌さまでは尚更」
「身内の穢れだ。事情を話すわけに行かぬ。春歌は重病ということにしてある……夏虫との縁談になるだろうな。何、あちらも少しごたついているようだから」
「――ああ、もう、全く。決まっていたものが全部壊れて、また新しく作り直して。わずらわしい限りです。大した手間です」
「生まれた子が異端でさえなければ。――いや、例え異端であろうとも、あの春歌さまの子でさえなければ」
「――……仮にそうであれば、春歌さまは」
「……きっと」


「壊れなかったろうな――。」

 上座の男――
 本家当主の深い溜息が、その場の空気を更に重く、鈍いものに塗り替えていく。





 足音に怯えて逃げ込んだ縁の下。
 そこで聴いた話は、わたしにとって決していいものではなかった。
 たった六つ、幼いわたしにもそれ位は分かる。
 頭上から響く祖父の低い声は、その厳格な顔立ちをすぐに思い起こさせた。灰色の混ざった太い眉をいつも寄せていて、眉間には深い縦皺が刻まれている、恐ろしい、恐ろしいひとだった。
 庭を挟んで客人の泊まる離れを臨む、祖父の部屋の広い縁側。その下でひそりと殺す息。
 そこに居ることを見つかれば、彼らに何をされるか知っていた。だから必死に息を殺し、震える身体を隠している。
 じめじめした黒い土に座りこんでいるせいか、スカートが湿って来て気持ちが悪い。

 肺いっぱいに溜まった湿った空気を少しずつ少しずつ吐き出しながら、
 幼いわたしは、そこから飛び出して行けるタイミングだけを待っている。
 
 暗闇に目が慣れたのか、ふと、間近に張られた蜘蛛の巣に気付いてしまう。
 ひぃ、と自分の喉が鳴りかけて、慌てて唇を噛み締めた。
 いやだ。蜘蛛は怖い。蜘蛛は、怖い。
 けれど縁を挟んですぐ上には、蜘蛛よりもずっと怖いひとが居る。悲鳴なんて上げられない。泣いて怖がっても、わたしのことは誰も抱き上げてはくれない。
 もしも悲鳴を上げればどうなるだろう? ――多分、きっと、前にされたみたいに、――ああ、思い出すのはやめよう。
 鼻と口を両手で押さえると、目だけが勝手に大きく見開かれていく。
 蜘蛛の脚。蜘蛛の脚。蜘蛛の脚が動いている。だんだらの蜘蛛がゆっくりと。
 あの頃なぜだか蜘蛛が怖くてたまらなかった。
 本能に近い何かが、怖い怖いと叫んでいた。
 縁側の後ろに逃げれば、更に怖い何かが居るかも知れない。けれど、時機を間違ったまま迂闊に出て行って誰かに見つかるのも――いやだ。――怖い。
 わたしは一歩も動けないまま、早く、早く、はやくはやくはやく、この暗いところから出してください、祖父から逃がしてくださいと祈る。
 幼いわたしは神様なんて存在を知らなかったから、滑稽なことに――祈る相手を祖父しか知らなかったのだけれど。

 目を瞑る。息が荒くならないよう、強く強く唇を噛む。
 ――はやく、はやく。早く。どうか。
 ――――――――ぼたっ。
 ――――――――――かさかさかさ。

 音と感触に驚いて、抑えていた身体がついに跳ねる。
 蜘蛛が巣から落ちていた。
 蜘蛛が。
 だんだらの――。

 わたしの、あしくび、に――。

「―――――――――――――――――――!!!!」

 迸った悲鳴はまるで。


 遠くで彬くんが泣いている気がした。わたしはただ目を見開いて、ひたすら何かを叫んでいた、貴重な空気をばかみたいに吐き出してずっと。ああ、泣かないで、彬くん、ごめんなさい、泣かないで。泣いている余裕なんてないの、逃げないといけないの。ふわああああん。ふわああああああん。ごめんなさい彬くん。ごめんなさい大おばさま。ごめんなさい大おじさま。わたしはずっと叫んでいる。すぐにでもそこから逃げなくてはいけないのに、足に力が入らない。お願い、動いて、動いて、わたし。狂ったように蜘蛛の乗った脚を振り回す幼いわたしを、今のわたしが見つめている。
 ごめんなさい、ごめんなさい、泣かないで、彬くん。
 泣かないで、泣かないで、わたしのせいで、ごめんね。
 縁を走る音、ここへ近づいてくるひと、大きな足音。それが誰かなんて知っていた、とっくの昔に分かっていたのに、なのに、ああ、もう動けない。


 蜘蛛が居ない足を掴まれ、そのまま力尽くで引き摺り出される。体勢を崩して後ろに倒れていなかったら、頭をぶつけて気絶していたかもしれない。そうなれば良かった。
 全身泥だらけのわたしは覗き込む三つの顔に隠され、太陽を見ることが出来なかった。白いブラウスの背中はきっと真っ黒、正面も埃や汚れでとても汚いし、スカートはその役を果たさずに、無様にめくれ上がって裏地まで汚れている。髪の毛も当然泥まみれ。ただ、足首の蜘蛛が消えていたことだけ、途方もなく嬉しく思える。


 彬くん、泣かないで、ごめんなさい、ごめんなさい。
 わたしを見て笑ってくれた初めての子だった。
 嬉しかったのに、ごめんなさい。ごめんなさい。

 わたしが居なかったら、彬くんはこの家で幸せになれた?
 ――わたし、生まれなかったら、よかった?


 掴まれた足に残った痣は、暫くの間消えなかった。





 泣き声が、ふたつ。
 決まりきった悪い夢のように。



 

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