siki jitsu - 05 

――ウサギはほほえみながら、待ちうけていました。
「あちこちかけ回ったのに、ごちそうは手に入りませんでした。そこできょうは、わたしをめしあがってください。けれど、わたしを殺してしまえば、いましめを破ることになります」
――ウサギは、一生けんめいに話しました。
「すみませんが、火をおこしてください。そうしたら、わたしは自分で火の中に飛びこみましょう。焼けたころ取り出して、めしあがってください」




 何かが割れるような音がした。
 視界の端に白いものが映った。
 牛乳を注いでいたグラスが床に叩き付けられたのだと、理解するまでに数秒掛かる。
 グラスを払い除けた掌が次にどこへ向かうのか、わかっているのに身体が動かない。

 長い黒髪が踊っている。肩にこぼれ背中へ流れ、首筋を滑ってもう一度舞い上がる。指を伸ばしたら、きっと絡む。蛍光灯の白光を跳ねさせて輝く、宝石のようなその色。
 わたしにはない色。
 同じだけの白光を浴びても、わたしの金髪はどこか寒々しい。
 どうしようもない違いを、そこにあるクレバスを、一体どうすれば埋められるんだろうか。

 霞む視界いっぱいに振り上げられた掌が映りそのまま大きく軌道を描くその一瞬。細い手首がぶんと乾いた空気を切る音。耐え切れずに瞼を閉じた一秒後、予想通りのタイミングで頭蓋の中に鈍い音が炸裂した。
 こめかみにひどい衝撃と曖昧な痺れ、悲鳴を上げずに済んだことで安心したのも束の間、すぐに燃えるような痛みが追いついてきて、意識とは関係なく涙腺が緩む。
 ――ああ、もう、全く、駄目だね。
 頭の中で誰かが言った。

「どうしてここにいるの」
「……、あの、」
「ずっと部屋に入っていなさいって言ったでしょう? その姿を私の前に見せないでって言ったでしょう?」
「……はい」
「――どうして言うことがきけないのよ」
 まっすぐに揃えてある前髪の奥から、冷たい眼が睨んでいる。戦慄く唇を抑えるために何度か唾を飲み込んだ。それでも、情けない、震えた声しか出せなかったけれど。
「あ、の、……喉が、」
「…………」
 ガレージの部屋の小さな冷蔵庫には、あまり沢山のペットボトルが入らない。買い置きの残りがもう無いことを忘れていた。夕方から眠って中途半端な時間に目覚めたせいか、それとも少し熱っぽいせいか、喉が渇いて仕方ない。
「かわいてて……、……ごめんなさ、」
「そんなことも我慢できないのね」
「……、、」
 その通りだと思った。我慢すればよかった。無理やりにでも眠ってしまえばよかった。お母さんに言われたことを、守らなかったわたしがいけないんだ。
 涙を拭おうとして持ち上げた手首を、思い切り強く掴まれた。曲げてはいけない方向へそのまま捻られると、知らずに噛んでいた唇が切れる。悲鳴は上げない。出来るだけ。広がっていく鉄錆の味、熱い、熱い。
 左頬が、熱い。
「――ごめんなさ……」
「――化け物!」
 ずきん、と心臓が飛び上がって震えた。
「――どうして言うことがきけないの」
 痛い、痛い。痛い。
「……どうして困らせるようなことばかりするのよ」
 あなたを見ていると頭痛がひどくなって止まらないのよ、と、数日前に言われたばかりだった。
「――どうしてまだ生きているの? ――どうしてまだそこにいるのっ?!」
 黒髪を滅茶苦茶に掻き回して、頭を抱えながら呟く声。
「どうして笑うの。どうして謝るの。――私はあなたを殴っているのよ? 化け物って、いつも、言っているのよ? ――それでも笑ってるのは――なぜ?」
 伸びたままの爪が、その青白い頬を傷つけている。
 濁った視線は、わたしを見ない。
「…………」
 どうして笑うの。どうして謝るの。どうして。どうして。
 身を切るようなその言葉にも、わたしはすぐに答を返せない。
 だって、生まれた時からそうだった。何をされても、そうだった。理由というには単純すぎる理由しか、わたしは持っていないから。
「……お母さん、もう、引っ掻かないで」
 だから出来るだけ何でもないような声で、捻られたままの手首の痛みを感じさせないように気をつけて、そうっとその髪に手を伸ばす。
「頬っぺた、傷になっちゃうから――」
「――さわらないでッ!」
 びくん、と細い肩が震えたのが見えた。
 ああ。
 頭痛、ひどくなってしまったのかな。
 お母さんはもう一度右腕を振り下ろす。
「――……ッ」
 わたしは、どこにも行けなかった。
 壁を背にしている自分。手首を捻られたままの自分。その手首を、振り払えない自分。
 きつくきつく眼を瞑ると、目尻の涙が引いていく。
 新しい痛みはなかなか訪れない。

「……どうして」
 震える、静かな声を、真っ暗な闇の中で聴いた。

「……どうして避けないの」
 その眼にまるでわたしを映さないまま、お母さんは呟く。白い右手はわたしの頬でも腕でも胴でもなく、その後ろにある壁に叩きつけられていた。
 ――お母さん。そんなことしたら、手を痛めるよ。
 壁は固くて冷たいから。人間の膚のほうが、いいよ。
 愚かなわたし。
 お母さんが嫌うのは、きっとこの盲目さだ。
「……どうしてだろうね」
 喉から絞り出したわたしの声は決して冷静ではなかったけれど、かといって興奮もしていなかった。頭の中でぐるぐるぐるぐる色んなものが混ざり合って反発しあって叫んで叫んで叫んで叫んで、叫び声が多すぎて結局ひとつの騒音にしか聞こえない、砂嵐のテレビの中に放り込まれたような感覚。
 喧騒の直中の奇妙な沈静。
「――わかん、ないよ、お母さん」
 もう一度、今度は少しだけ大きな声で。
 お母さんは深く俯いて、やっぱりもう一度、どうして、と言った。長い髪が零れ落ち、人形のような造作の顔を隠すのを、わたしはどこか呆然と見つめている。
 切れそうに張り詰めたこんな声も、さっきまでの刺すような悲鳴も、きっと絶対に嫌いにはなれないだろう、なんて。随分昔から知っていることを、もう一度確信するくだらなさ。はっきりと。揺らがずに。飛ぶことも消えることも失われることも有り得ない最大の前提を、遡って確認して指をさして、わたしは一体何を安心しているんだろう。
 泣き叫びながら殴られることに(殴ってくれることに)、冷たい視線を向けられることに(それでもわたしを見てくれることに)、
 わたしは、一体、何を安心しているんだろう?

 そこにはいつも絶望的な確信がある。完膚とは程遠いぼろぼろの身体にされても、いつか殺されてしまうのだとしても、それでもわたしはお母さんが好きだという確信。愛している、愛している、愛している、口で言うことも態度で示すことも無駄で、意味がなくて、逆に――追い詰める。信じられない、そんな盲目な愛なんて有り得ないと、お母さんは怯えながら全てを否定してしまう。
 どうして逃げないの――。
 悲鳴にも似たその声を、今まで何度聴いただろう?

「……わかんないけど、でも、……多分」
 どうしてこんなに食い違ってしまうのだろう。
 わたしはお母さんが好きで、お母さんはわたしが嫌い。わたしの髪はくすんだ金で、お母さんの髪はまっすぐな黒。わたしの眼は緑色、お母さんの眼は、黒。
 お母さんは「ちから」を持った人間が大嫌いで、
 わたしは、
 それを持って生まれた。
「――……好きだからじゃないかな……。」

 あなたのことがすきでたまらないから。
 わたしの中には愛しか残っていないから。
 もう、あなたに、それしか、あげられないから――。

 ゆっくりと顔を上げ、お母さんの眼を見る。
 光のない、濁ったまっくらな夜の色。
 その中に一瞬だけ、恐れるような感情の波が見えた気がしたけれど、
 すぐに思い切り頬を叩かれたので結局分からなくなった。

 暗転。
 見えない世界。
 聞こえない声。
 白い、白い、天井の、
 開いたままの瞼、露出する緑、

 下りてくるあなたの掌の色が、ただ美しいと思っていた。



 

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