siki jitsu - 06 

――何もかもの始まりの少し後。
――或いはここからが悲喜劇の始まり。




 髪も歯も生え揃わないその生き物は、白いガーゼに包まれてただ静かに眠っていた。

 眼が覚めたのは客間だった。
 見慣れぬ天井と畳の固さに違和感。
 そしてもう一つの寝息に――理由の解らない焦燥を味わう。

 深く眠りすぎて、時間の感覚を失ったようだった。
 今が三月の何日か、外は暗いけれど正確な時間はいつ頃なのか。はっきりしない。何も、判らない。
 屋敷に人が活動する気配はないから、恐らく深夜から朝方なのだろう。
 案外に、あれから数時間しか経っていないのかもしれない。
 頭に霧がかかったようで、よく判らない。
 手術台に眠る前のことを、思い出せない。

 焦燥?
 なぜ。
 なぜ?

 行李に布団を敷き詰めただけの、揺れもしない簡単な揺籠で、その生き物は眠っていた。
 側に近付くと、握りしめられた小さな手がぴくりと動いた。
 まだ産毛のような髪は薄く、蛍光燈の明を透かして金に輝いている。

 遠い記憶、
 妹の生まれた頃を思い出す。
 あの時も、こんな風だった。
 きちんと揺れる本物の揺籠に。
 周囲には人が沢山いて。
 揺籠。妹が眠っていて。
 目の前の光景と重ね合わせると、次々に異質が見つかった。

 この生き物の肌は、まるで白と桃を混ぜ合わせたような、甘い色をしている。人種が違うんだ。頭の端、やや明瞭な所で、そう思う。細い髪もきっと、年月を重ねても漆黒にはならないのだろう。きっと柔らかな栗色か、金色だ。
 顔立ちはどこか、妹に似ているのだけれど。

 焦燥。
 焦燥。
 焦燥。
 引っ掻くような焦燥。

 ――他人に無駄な期待はせず、その時々、自分に出来得る最善の努力をするのが美しいと思っていた。
 期待は他力本願の最たるもの、力を尽くさぬ内に物事を投げるなんて愚の骨頂。
 ずっと、そう教えられてきた。
 力の出し方を覚えて以来、私に出来ないことはなかった。
 初めから総て知っているかのように、何もかも私の手の中に収まった。
 私を恐れる母と妹。
 私の力を喜ぶ父。
 尊敬に値する人間は少なくほんの一握りで、その他の雑多な人間達は空気のように特徴がない。
 それが当たり前だった。
 それが私の、世界だった。

 父はそれで喜んだ。
 父が喜ぶなら私も喜んだ。
 妹は私のようにはできなかった。
 父は妹には失望していた。
 
 あれはだめだ、と父は言った。
 そうですか、と私は返した。その場に妹はいなかったけれど、もし妹が居合わせても、きっと同じ事を言っただろう。
 そうですか。
 それくらい知っていましたと言うように。

 いつか私が失態を犯したその時、
 父は言うのだろう、他の誰かに、
 あれはだめだ。
 春歌は、だめだ。
 そして誰かが答えるのだろう。  ――そうですか。

 勿論そんな事態はあまりに現実離れしすぎていて想像もつかず、無理やり思い浮かべてみせたとしても、私に何の感傷も与えなかったのだが。
 自分が父に見捨てられるような失態を犯すなど、ある訳がないと思った。
 そんな――愚昧。
 私が。

 最善の努力を。
 特徴のない他者に、期待などせずに。

 私に出来ないはずがなかった。
 出来るはずだった。

 出来るはず――
 だった。

 頭が痛い。
 麻酔が残っているのだろうか?
 涙なんて出ないし怒りもない。
 私は今、何をすればいいのだろう。
 行うべき努力など何処にある。
 最善が判らない。
 一点を明確に示して欲しい。
 そこに力を尽くせと言うのなら幾らでも注げるけれど、今の私には、その一点が見えていない。
 示してくれる人間もいない。
 期待しても何も得られない。
 ――頭に、霧が、
 ――思い出せない、
 ……何か、
 焦燥が、
 ……何か……、
 何を、
 何を、
 焦っている?
 どうにか足掻かなくてはならない気がしているのは――なぜ?

 頭が痛む。
 畳を踏む足取りが、自分でも解るほどふわふわとして頼りない。
 身体の中心が、痛いような気がする。

 私が近付いたのが判ったのか、白い生き物はふやふやと、幼い眉を寄せて鳴いた。
 人が来る気配はない。
 気など遣わずに抱き上げてみると、ふわあ、と、猫の鳴くような声をあげる。
 まだろくに物など見えていないのだろう。それ位、幼かった。小さな身体は、想像していたよりも軽かった。
 けれどとても、重い。
 なぜ?

 畳に立ち上がり、抱いた腕ごと静かに揺らす。ぐずる声はやはり猫に似ている。
 私はそのまま揺らし続ける。
 努めてまともに。
 できるだけ静かに。
 この細さを殺してしまわぬように。
 ……焦燥が頭痛を引き起こしている。
 生き物の瞼は、傷のような線を描いて閉じていた。二重瞼の線が、その上にうっすらと見えた。

 思い出せない――
 思い出せないの――
 だから放っておいて、
 ――何を?

 ぱたり。
 生き物の瞼が開かれた。
 泣くのだと思った。
 けれど生き物は泣かなかった。
 その眼は濃緑――
 私を見て、笑った。
 私はそれを見つめ返す。
 濃緑が暗く濁ったのは、私の黒が映ったからだろうか。
 泣くのだと思った。
 赤子のように泣くのだと思った。
 けれど生き物は泣かなかった。
 私を見て、
 (その眼は濃緑)
 笑った。


(――絶叫)
(――絶叫! 絶叫! 絶叫! 絶叫! 絶叫! 悲鳴! 悲鳴! 悲鳴! 悲鳴!)
(――――悲鳴!)
(泣いたのは、)


 頭が痛い。
 この、生き物の、異質の理由を知っている。
 思い出している?
 違う。
 もうとっくに。
 初めから。
 忘れてなど――いない。
 忘れた振りを、
 だって私は、
 弱いから、
 忘れた振りを、
 していただけなんだ。
 
 ――弱い?
 私が?

 それなら、父に、言われるのか。
 あれはだめだ。
 あれはだめだ。
 お前はだめだ――


 ――――――――――い や あああああ あ ああ あ !


 悲鳴の残滓、
 痛み、傷み、痛み、悼み
 すべての痕の
 すべての跡の
 すべての後の、
 静寂の空間
 ――部屋?
 天井が――見えた?
 横たわる身体の、脱力した四肢。

(それはわたし)
(わたし)
(わ――たし)
(そこで倒れているのは、わたし)

 ぼうやりと起き上がる、
(痛み)

 脚に、
 ……白い
 ……赤い
 脚に、
 ……そこ、に
 ――――――――――白い残滓

「――――――――いやああああああああああああああ!!」

 腕の中の生き物が、火のついたように泣き出した。


「どうなさったんですかッ! 何の音で――ッ、」
「――お嬢さま」
「――……お嬢さま! しっかり、お止め下さい、やめ――やめて、やめて……!」

 周りに誰かがいる。何か叫んで、腕に絡み付いてくる。
 いやだいやだいやだいやだ――!
 あの時と同じだ――四肢が自由にならなかった――押さえつけられて――逃げられなかった!
 私は叫んで――
 救済を期待して――
「人を呼んできて! 早く! 早く!! 離れの先生にもこれを伝えて!」
「いや、いやあ、あああああああああ!」
「お嬢さま! お嬢さま……ッ、手を、」
「あああああ、あ、あああっ……、いや、離して、いやあああああああああ!」
「お嬢さま、お離しください! 手を離して! お嬢さまッ!! 死んでしまいます、――死んで――しまいます!」
 ――裏切られた!

 ――あれはもう駄目だ。
 ――子を。望まない子を身篭った。
 ――何処の誰の種かも、解らぬ。
 ――壊れてしまった。
 ――春歌はもう――だめだ。

 お父様。
 見捨てないで、お父様。
 かすれた私の声は、襖の向こうへ届かなかった。

 掌の中の細い首。
 助けなんてない。救済なんてない。裏切りだけがそこにあった。
 掌の中の細い首。
 私には、もう、何もない。
 掌の中の細い首。
 忌々しい白い肌。忌々しい濃緑。忌々しい、その金髪。
 似ている。
 思い出す。
 忌わしい。
 押さえ付けられた四肢。跳ね上げても、跳ね上げても、無駄。
 痛み!
 ――殺したい。
 ――その白い肌その緑の眼その金の髪に私は私は私は私は!

 違う、違う、違う、違う、
(ちがうんです、おとうさま、ねぇ、)
 だめなのは――私じゃない、
 この、
 この、
 忌わしい――!

(春歌お前はこの家の長女だから跡取りだから蛇ノ目全体を率いるものだから)
(だから他の誰よりも誇り高く誰よりも強く誰よりも高潔でなければ――)

 ずっと、そうやって生きてきたのに。
 私には難しいことではなかったのに。
 あの時私は誇りを捨てた、助けてと叫んだ、泣いて、泣いて、泣いて、叫んだ、
 それでも救済はなく、
 すべて終わって、
 ただそこに、
 薄汚く堕ちた自分だけが、残った。

「死んでしまいます――!」
 ――殺してやりたい!

 細くてか弱い赤子の首を、がたがたと震える腕で絞める。振り払っても振り払っても誰かの手が纏わり付いてくるから、何度も何度も振り払って絞める。死んでしまうと叫ぶ声。誰のものだろう。聞き覚えはあるのだけれど。死んでしまいます。やめて。赤ちゃんが死んでしまいます。いいのよ、だって、殺したいんだから。
 生き物が泣いている姿を見ると、少しだけ安心した。
 よかった。私じゃ、ないんだ。
 弱いのは、私じゃ、ないんだ。
 誇りを失くして泣いたのも、汚いのも、堕ちたのも、私じゃ、ないんだ。
 だから私はまだ――大丈夫なんだ。

 白濁と濁赤の闇の中から生まれたのだろう?
 私の子宮から出てきた、この――
 ひどく父親に似た――生き物、
 泣いている――
 弱い――
 赤子は。

 弱く汚いこの白いもの。
 穢れから生まれたもの。生まれてきてはいけなかったもの。
 私はそれを産んだのだから、もう、私の中にこれは存在しないのだから、
 だから私は――私は、
 もう、汚くない。
 駄目じゃ――ない。

 泣いているのは誰?
 この頬が熱いのはなぜ?

 私じゃ、ない。
 私は強いから、泣いたりしない。
 悪いのは全てこの生き物――。
 ――お父様にも、このこと、解って貰わなくちゃならない。

 ――それで私は救われる。
 だからどうか、
 だからどうか、

 赦して。
 この弱さを、押し付ける狡さを、赦して。
 もう立っていられない程、何もかもが怖いから。
 どうか、赦して。
 いつの間にか、そう――願っていた。
 ばたばたと廊下を駆ける音。途端に明かりの付き始める屋敷。白い服、人影、頻りに指示を飛ばす声。薬品のにおいと、それから、それから。
 ――それから。
 ――記憶が、飛んだ。

 ――鎮静剤の 透明な色
 見えたのは足りない袖と
 天井の木目が人の顔に
 ああ
 あ
 とけてい
 く

 ――最後に見えたのはただ白い
 ――白い
 いきもの

 いきもの…………。



 ――私は望まない子を産んだ。
 二十歳の春のことだった。

























 ――庭の柚子が、夏の風に葉を揺らす。
 遺品を整理していた私はふと顔を上げ、随分と雑草の茂ってしまった庭を見た。
 誰もいないことは解っているのに、身体が動く。
 家のどこかでかたん、と聞こえる物音に、そんなはずはないと知りながらも名前を呼んでしまうようなことが、最近多くなっていた。
 そのうちに慣れると医師は言うけれど、こんな調子では何年経っても変わらないのではないだろうか。

 あの日のことを、思い出さなかった時などない。
 出産の後、鎮静剤による眠りから覚めた私は、産んだばかりの自分の子供を絞め殺そうとしてひどく騒いだ。
 ちょうど離れに泊っていた主治医にもう一度薬を打たれ、再び意識を泥に変えて。
 もう一度眼が覚めたときには、揺れない揺籠も、その中の赤子も、私の部屋から消えていた。

 あの日に赤子を殺していたら、私は違った未来にいたのだろうか。
 私の罪ごと、あの白い肌を青黒く絞め殺せていたのなら。
 この寂寥とした未来は少し――
 少しでも、変わっただろうか。

 広い家に、誰もいない。
 私以外の――誰も。
 この間まで、いたのよ。そこで、いつも、笑っていたのよ。
 ――言葉を掛ければいつだって、頷いてくれていたのに。

 最期まで、私はその生き物を殺せない。
 殺せなかった。何度も何度も殺し掛けて、けれどいつだって殺せなかった。
 そして生き物は唐突に死んだ。私があの子を見つけたのは、既に事切れた後だった。
 咲き誇る柚子の花が、ひとひら服に落ちていた。

 死ぬ前まであの子が使っていた部屋には、家具と言える程の家具もない。文机と布団くらいのものだ。この部屋よりもずっと長い間使われていたガレージは、あの子自身が片付けたのだろうか、中にあった雑多なもの全てが綺麗に消えてしまっていた。
 飴色につややかな文机を撫でる。引き出しの中を順に見ていく。
 一番上。僅かな筆記具と便箋、封筒。
 真ん中。蝶の形をした栞。詩集。いくつかの手紙。
 一番下の引き出しを引く。
 ――開かない。
 奥で何かが引っ掛かっているのか、引き出しはかたかたと音を立てる。

 私の罪は私の前で生きていた。
 脈を打ち血を巡らせて生きていた。
 いつだって、理由もなく私を愛した。
 いつか私が願った通り、いつだって無条件に、私を、赦した。
 ――笑って。
 ――お母さん。

 最期まで、私はその罪を殺せない。
 痛めつけ、罵倒して、消えない傷を刻み込んでも、罪は――娘は、そこにいた。

 小さな机ごと揺らすように力を入れると、引き出しは勢いよく開いた。
 どうやら本当に何かが引っ掛かっていたらしい。引き出しを抜いた後の空洞に手を入れる。
 空洞の中、天井の奥にあったのは、貼り付けたテープの剥がれ掛けた――
 白い、
 ――封筒?
 手に取る。
 裏返す。
 あまり見覚えのない文字――


『お母さんへ』





 ――――――――せせり。
 気付けばまた、あの子の名前を呼んでいる。



 

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